評論家の中野剛志は『反・自由貿易論』(新潮新書)で、国家主義のイデオロギーをむき出しにこう書く。「ルールの体系を設計し、担保するのは政治であり、国家です。貨幣、私有財産制度、取引法制など、市場に不可欠なものは全て、国家の政治力がなくてはありえません。市場は、国家の政治力によって形作られているのです」。たいていの人は、法や貨幣は国家が設計し、強制しなければ成り立たないというこの考えを信じていることだろう。だがそれは根拠のない俗説である。
国家による立法が広まったのは近代以降で、人類史においては比較的最近にすぎない。それ以前の法は、部族の慣習、先例に基づくコモン・ローの裁判、商事裁判所の商慣習法、船荷主が設置した法廷で形成された海事法など、国家以外の制度から生み出された。近代国家によって定められた法律には、これら近代以前に確立された法を明文化したものが含まれる。
歴史家フリッツ・ケルンが述べるように、近代以前、法を「創造」するという考えはなかった。法は「発見」するものであった。すなわち、慣習や判決の積み重ねから理性によって抽出される法則であった。それゆえ法とは古いものであり、新しい法とは言葉の矛盾である。「中世の観念にしたがえば、新しい法の制定はそもそも不可能」とすら言える。
貨幣も同様である。貨幣とは元来、貝殻や石、家畜や穀物など、その役割にふさわしい自然の産物を人間が自発的に選ぶことによって生まれた。最も便利な貨幣として世界で使用され、近代の経済発展を支えたのが金や銀である。やがて金貨や銀貨の鋳造は政府が行うようになったが、もとは民間で製造されていた。
これらの事実は、国家の政治力がなければ法や貨幣はありえないという主張が嘘であることを証明している。それどころか、国家による法律の濫造、貨幣の濫発は、社会や経済を混乱させている。個人に任せるべき健康づくりや子づくりを政府が押しつける健康増進法や少子化社会対策基本法をはじめとする悪法の数々、「異次元の金融緩和」がもたらした円相場の乱高下はその典型であろう。
市場経済によって不安定になる社会を政治が安定させるという中野の主張とは逆に、政治の介入こそ社会を不安定にする元凶なのである。
(2013年7月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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