日本国憲法が5月3日に施行77年を迎えた。毎日新聞は同日の社説で、イスラエル軍による抵抗組織ハマスへの攻撃によりパレスチナ自治区ガザ地区で女性や子供を含む3万4000人以上が死亡したことなどに触れ、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」(憲法前文)という「日本国憲法の平和主義の理念が今、国際社会の現実によって脅かされている」と嘆いた。しかし、「日本国憲法の平和主義の理念」が国際社会の現実によって脅かされるのは、今に始まったことではない。
[毎日新聞] 二つの戦争と平和憲法 市民の力で破壊止める時 (2024年05月03日) #社説 https://t.co/uyDYmmUwN8
— 新聞社説一覧 (@ktaro38) May 2, 2024
戦後史をたどれば、日本が深く関わっただけでも重大な国際紛争は少なくとも5回あった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争だ。
憲法施行の3年後に勃発した朝鮮戦争では、朝鮮半島に近い日本は、兵站を支える補給基地のほか戦闘機、爆撃機、艦艇の出撃基地としてフル稼働し、結果として経済復興のきっかけをつかんだ。ベトナム戦争では、朝鮮戦争で果たした補給・出撃基地としての役割がさらに拡大強化された。米軍による北ベトナム攻撃(北爆)の主力は、沖縄から出撃するB29爆撃機だった。湾岸戦争では、米国が主力となった多国籍軍を戦費負担で支えた。米国の「テロとの戦争」の皮切りであるアフガン戦争では、艦艇への洋上補給作業に海上自衛隊があたり、続くイラク戦争では、陸上・航空自衛隊が復興支援の名の下にイラクへ渡った。
これらの戦争によって現地の市民は多数死傷し、「恐怖と欠乏」にさらされた。つまり、「平和主義の理念」は憲法施行以来、ほぼ一貫して脅かされてきたといっていい。けれども、毎日はそうは書かない。書いてしまったら、憲法施行以来、世界では戦争がやまず、その中には日本が深く関わったものもあるというのに、誇らしげに「平和主義の理念」を掲げることの偽善があらわになってしまうからだろう。
メディア関係者を含む多くの日本人は、戦後日本が平和でよかったとしばしば口にする。左派は憲法9条のおかげだといい、右派は日米同盟のおかげだという違いこそあれ、戦後日本が平和で、それはいいことだったという認識に変わりはない。けれども、視野を日本の外に広げれば、すでに述べたように、多くの人々が戦争で生命や財産を奪われ、恐怖と欠乏に苦しんできた現実がある。そしてそれらの戦争で、日本は直接戦闘にこそ参加しなかったが、さまざまな形で協力した。その協力は、一部違憲だと裁判所から指摘されたものの、おおむね「平和主義」の枠内だとされてきた。これを偽善と呼ばないのは難しい。
それでも「平和主義」がどうにか破綻せずに済んできたのは、なぜだろうか。韓国の日本研究者、権赫泰(クォン・ヒョクテ)氏は「憲法の「平和主義」は冷戦体制下での米国の対アジア戦略の産物」だと指摘し、次のように説明する。「米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の70%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ」(鄭栄桓訳『平和なき「平和主義」』)
韓国は、朝鮮戦争では自国が戦場となり、ベトナム戦争では米国の要請を受けて、約5万人、のべ31万人余りに及ぶ実戦部隊を派兵した。その規模は、オーストラリアやニュージーランドを含む東南アジア条約機構(SEATO)諸国全体の派兵数の約4倍にも及ぶ数だった。今日では、韓国軍のベトナム住民に対する残虐行為が明らかにされ、枯葉剤による後遺症が深刻な問題となっている。韓国軍のこうした行為は批判されなければならないが、韓国が日本の分まで戦闘の役割を押しつけられた結果であることを忘れてはならないだろう。
権氏が指摘するように、日本の「平和」の犠牲になった点では、沖縄も同じだ。沖縄の人々が長年、米軍基地の過剰な存在に苦しんでいるにもかかわらず、日米同盟が必要だという多くの日本人は、基地を自分の町で引き受けるとは決していわないし、メディアもそうした主張はしない。これが日本の平和主義の醜い現実であり、日米同盟の醜い現実でもある。
権氏の「分業ネットワーク」論に通じる鋭い洞察がある。リバタリアン思想家のハンス・ヘルマン・ホッペ氏は、第二次世界大戦後、世界で西欧諸国や日本と韓国などが互いに戦争をしなかったのは、一部の論者がいうようにこの国々が民主主義国だからではなく、米軍の駐留が示すように「実質上、アメリカ帝国の一部になった」からだと述べる。覇権主義的で帝国主義的な大国である米国が、その「植民地部分」を互いに戦争させず、米国自身も衛星諸国に対して戦争を仕掛ける必要がなかったからにすぎないという。それはソ連の覇権支配時代、衛星国である東欧の共産主義諸国が互いに戦争をしなかったのと変わらない。日本の保守派はソ連に支配された旧東欧諸国を憐れむが、覇権国の事実上の植民地として「平和」を許されている点で、今の日本も違いはない。
「覇権による平和」ともいうべきこの体制には問題がある。一国が「平和」を享受する代償として、国内では沖縄のように、国外では韓国や「テロとの戦争」で戦場にされた国々のように、誰かが暴力の犠牲になる点だ。憲法前文に謳われた「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」という真の平和は、誰かを犠牲にして手に入れるものであってはならないはずだ。
諸国の非難にもかかわらず米国のイスラエル支援によってガザで奪われつつある膨大な人命は、覇権国の支配がもたらす代償の大きさをまざまざと見せつける。もし日本が憲法の理念に忠実に、世界に真の平和を実現する役に立ちたいのであれば、覇権による偽りの平和を否定しなければならない。もちろん憲法に自衛隊や国の自衛権を明記しろといいたいわけではない。それは覇権下における分業体制の微修正であり、延長でしかない。
毎日は「市民の行動する力」に望みをかける。それに異論はない。たやすくはないにせよ、市民の力を背景に、覇権国の暴走に外交の場で何度もノーを突きつけるところから、真の平和追求は始まるだろう。
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