米国では南部を中心に、奴隷制存続を主張した南部連合(アメリカ連合国)にゆかりのある人物の銅像や記念碑が数多く設置されているが、抗議運動の中で、各地で倒されたり自治体によって撤去されたりする動きが相次いだ。
南北戦争(1861〜65年)に関しては、人種差別をめぐる善対悪の単純な図式にあてはめた報道が目立つ。しかし実際の背景はもっと複雑であり、ニュースでは触れられない意外な事実が少なくない。
まず、戦争の目的である。南北戦争は初めから奴隷解放のための戦争だったと思うかもしれないが、そうではない。戦争が始まってから少なくとも一年半の間、奴隷制は戦争の争点ではなかった。
開戦前にさかのぼって経緯をたどってみよう。1860年11月の大統領選挙で、奴隷制の拡大反対を唱える共和党からエイブラハム・リンカーンが当選すると、これを機に南部ではサウスカロライナ、テキサス、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、ジョージア、フロリダの7州が相次いで連邦から脱退し、翌61年2月、アメリカ連合国を結成した。3月4日にリンカーンが第16代大統領に就任したときには、合衆国はすでに分裂状態になっていた。
ところがリンカーンは同日の大統領就任演説で、奴隷制を批判しなかった。むしろ「奴隷制度が敷かれている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない」と述べた。同年7月4日に特別議会へ与えた教書でも、南部の行動を「連邦破壊の試み」だとして非難するばかりで、奴隷制の是非などはまったく語っていない。
リンカーンは個人としても、奴隷制や人種差別に反対ではなかった。1858年、イリノイ州選出の上院議員候補として出馬し、民主党の現職議員スティーブン・ダグラスと論戦を交わした際、こう述べた。「私は白人と黒人のいかなる社会的・政治的平等の実現にも賛成しないし、賛成したこともない。黒人が選挙権や裁判権を与えられたり、公職に就いたり、白人と結婚したりすることに賛成でないし、賛成したこともない」
リンカーンはこれに先立つ1834〜42年、イリノイ州議会の議員を務めているが、この間、州の黒人差別立法に反対したことはない。黒人への選挙権付与に反対し、黒人に裁判で証言を認めさせようとする請願に署名することを拒んだ。
リンカーンは黒人植民を強く支持してもいた。黒人植民とは、奴隷から解放され、自由な身分となった黒人を米国外の地に移住させることだ。1816年に創設されたアメリカ植民協会は、黒人植民によって合衆国を白人の共和国にすることを目指した。リンカーンが政治の師と仰いだ大物政治家ヘンリー・クレイは同協会の創立メンバーで会長も務めた。リンカーン自身、黒人をアフリカのリベリアや中米のハイチに移住させる案を抱いていた。
当時の米国で人種平等や奴隷解放を唱えたのはごく一部の運動家だけで、奴隷や黒人への蔑視と嫌悪は、南部に限らず、北部でもごく一般的な感情だった。リンカーンもそうした普通の白人の感情を共有していた。もし黒人差別を理由にリー将軍の像を撤去するのなら、ワシントンの記念堂にあるリンカーンの大理石像も問題にしなければならないだろう。
リンカーンと北部諸州にとって、戦争の本来の目的は奴隷解放ではなく、連邦の維持にあった。
先に連邦を離脱した7州に続き、1861年4〜5月にかけて、バージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーの4州が新たに南部連合に加わり、首都はバージニアのリッチモンドに置かれた。一方、南北の間に位置し「境界州」と呼ばれるミズーリ、ケンタッキー、メリーランド、デラウェアの4州は、奴隷州でありながら南部連合には加わらず、連邦にとどまった。
これに対しリンカーンはいかなる州も勝手に連邦を離脱することはできないとして、断固連邦を維持する決意を示した。1862年8月、ニューヨーク・トリビューン紙の編集長ホレス・グレーリーに対し、明確にこう述べている。「この戦争における私の至上の目的は、連邦を救うことにあります。奴隷制度を救うことにも、滅ぼすことにもありません。もし奴隷は一人も自由にせず連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるのならば、私はそうするでしょう。またもし一部の奴隷を自由にし、他はそのままにしておくことによって連邦が救えるものならば、そうもするでしょう」
リンカーンは、合衆国憲法にのっとって正当に選出された自分の権威が、相次ぐ離脱によて否定されるのは耐えがたかった。また、共和党や北部世論にとっても、連邦体制は一種の神聖さを帯びた理念であり、実体でもあった。
だからといって、連邦離脱は許さないというリンカーン側の言い分には疑問が残る。南部連合側の主張によれば、離脱の法的根拠は合衆国憲法修正第10条にある。同条では「この憲法が合衆国に委任していない権限または州に対して禁止していない権限は、各々の州または国民に留保される」と定めている。合衆国憲法に連邦離脱に関する規定はなく、なおかつ州は連邦政府に対し離脱を禁止するいかなる権限も委任していない。したがって、離脱は州の権利として留保されているはずだという。
これは決して無理な主張ではない。事実、リンカーンの前任者ジェームズ・ブキャナン大統領が最初の南部7州の離脱を黙って認めた背景には、この法解釈があった。ブキャナンは南部諸州に離脱の権利があるとまでは考えなかったものの、連邦政府に離脱を禁止する権限があるとも思わなかった。
しかしリンカーンは、離脱に対し強硬姿勢で臨んだ。1861年4月、南部連合はサウスカロライナ州の中心都市チャールストン、つまり自国のど真ん中に残された連邦政府のサムター砦に砲撃を加え、陥落させた。死傷者はなかったが、リンカーンは反乱のレッテルを貼り、7万5000人の兵を差し向けた。ここに南北戦争の幕が切って落とされた。当初、南北双方とも自らの勝利のうちに短期間で終わると楽観していた戦争は、丸四年続くことになる。
戦争が長引くにつれ、リンカーンは焦りを覚えた。このままでは英国やフランスの干渉を招き、南部連合の独立の承認という耐えがたい条件を飲まされることになる。戦局を好転させる窮余の一策として脳裏に浮かんだのが、奴隷解放の宣言だった。
実行すれば、奴隷解放を求める内外の声に応え、「人道のための戦争」として世界の世論を味方につけることができる。同時に、南部の奴隷たちは大挙して大農園を脱出し、北軍のもとに押し寄せるだろう。それは南部社会・経済の根幹を破壊し、南軍の戦争遂行能力に打撃を与えるだけでなく、脱走奴隷を北軍の兵士や労働者として使役すれば、連邦政府側の戦力が高まる。
こうして1862年9月22日、リンカーンは「奴隷解放予備宣言」を発し、翌63年1月1日、正式な「奴隷解放宣言」を発した。ただし、解放の対象となったのは反乱状態にある州や地域の奴隷だけであり、連邦軍がすでに支配していた地域や境界州の奴隷は対象外だった。境界州の奴隷主たちを刺激しないための配慮だった。リンカーンの奴隷解放が人道上の目的ではなく、政治・軍事上の手段でしかなかったことを物語る事実だ。北軍に逃げ込んだ黒人奴隷は自由にはならず、野営地で過酷な労働を強いられるか、奴隷主に送り返された。
奴隷解放が目的であれば、戦争に訴える必要はなかった。18世紀後半から19世紀にかけて、奴隷制は英国、フランス、スペインの植民地を含め多くの国・地域でなくなったが、米国と違い、いずれも平和裡に廃止された。奴隷は労働者の賃労働に比べ割高で、経済的に不採算になっていたからだ。
南北戦争では近代的兵器が初めて使用され、両軍合わせ約60万人が戦死した。これは第二次世界大戦の約40万人、ベトナム戦争の約5万人などを上回り、米国史上最大の犠牲者数である。戦争末期、北軍の将軍ウィリアム・シャーマンが決行した焦土作戦では道路や鉄道、橋、工場などが破壊され、家畜が殺戮された。当時でも戦争犯罪にあたる非道な行為だ。
南北戦争は英語でCivil War(内戦)と呼ばれるが、正確には内戦ではない。内戦とは国内における権力の奪取をめぐる戦争だが、南部諸州は権力を奪おうとしたのではなく、独立を望んだだけだ。リンカーン政権が黙って離脱を認めていたら、戦争で甚大な犠牲者を出すことはなかったし、奴隷制も平和に廃止されていたかもしれない。南北戦争を善対悪の図式でとらえるだけでは、その真の教訓を学ぶことはできない。
<参考文献>
- 小川寛大『南北戦争-アメリカを二つに裂いた内戦』中央公論新社、二〇二〇年
- 貴堂嘉之『南北戦争の時代 19世紀』岩波新書、二〇一九年
- 紀平英作編『アメリカ史 上』山川出版社、二〇一九年
- Thomas E. Woods Jr., The Politically Incorrect Guide to American History, Regnery Publishing, 2004
- Thomas J. Dilorenzo, The Real Lincoln: A New Look at Abraham Lincoln, His Agenda, and an Unnecessary War, Crown Forum, 2003
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