2019-02-01

パルテノン神殿の光と影

ギリシャ文化省の職員が2018年10月11日、一部の名所旧跡が民営化の対象に含まれるとの懸念が強まるなか、抗議のため24時間のストを決行した。

ロイターの報道によれば、このストにより、首都アテネの中心部に位置する観光名所アクロポリスの丘やパルテノン神殿などの遺跡と複数の博物館が閉鎖され、観光客が長い列を作る事態となった。現地では、文化省職員ら数十人が「この国の古代文化は売り物ではない」と書かれたプラカードを掲げるなどしたという。

古代ギリシャの栄光を象徴する遺跡として世界的に有名なパルテノン神殿。しかしその建設の背景には、民主政治の源流といわれる古代ギリシャの光だけではなく、影の部分も見え隠れする。

古代ギリシャの特徴である都市国家をポリスと呼ぶ。城壁を持つ中心市と周囲の村落から成り、1000以上のポリスが存在した。イオニア人のポリスであるアテネ(アテナイ)はスパルタと並ぶ強大なポリスで、古代民主制を完成させたことで知られる。

紀元前5世紀初め、ペルシア帝国支配下にあるイオニア地方のポリスが反乱を起こし、これをアテネが支援したために、ペルシャ帝国はギリシャに軍隊を差し向けた。このペルシャ戦争でアテネは、まず前490年にマラトンの戦いでペルシャを退ける。前480年にはサラミスの海戦でペルシャ海軍を撃破し、翌年にはプラタイアイの戦いでスパルタと連合してペルシャ軍を破った。

ペルシャ帝国に勝利したギリシャ人は、ポリスの自由と独立を死守したものと誇った。皮肉なことに、この勝利を境として、ギリシャでは自由と独立が失われていく。


前478年頃、ペルシャ軍の再来に備え、アテネを中心に軍事同盟が結成される。デロス同盟である。

同盟の本部と金庫はデロス島に置かれ、そこで開かれる同盟会議で参加諸国はアテネを含め平等に1票の投票権を行使できるとされた。しかし、軍船を提供する国と拠出金を提供する国の決定、拠出金の額の決定はアテネが行ったから、当初からアテネ主導の同盟だった。第二次世界大戦後、米国を中心に構築された西側諸国の安全保障同盟を連想させる。

前449年にはアテネとスパルタの間に和平が結ばれたから、デロス同盟は本来の趣旨からいえば役目を終えたことになる。しかし現代の冷戦終結後も米国を中心とする安保同盟が存続したように、アテネは同盟を維持した。

アテネが同盟維持に固執した一因は、同盟が自国に金銭的利益をもたらしたことにある。参加国が支払う拠出金を納めた同盟金庫は前454年、デロス島からアテネのアクロポリスへと移管された。以後、同盟諸国の毎年の拠出金はアテネ繁栄の資金源の一部となっていた。

当時アテネを率いたのは、アテネの代表的政治家と呼ばれるペリクレスである。名門に生まれ、ポリス民主制の完成者とされるペリクレスは、歴史学者から「ギリシアの栄光がアテネに代表されるならば、アテネの栄光はペリクレスの名に代表される」(橋場弦『民主主義の源流』)などと絶賛される。


しかし経済の視点から振り返るとき、ペリクレスの政治からは、有権者の人気取りを狙ったバラマキ政策という負の側面が浮かび上がる。

ペリクレスの指導の下、アテネでは民会を中心とする直接民主制が実現され、ほとんどの公職が市民からくじで選ばれ、成年男子市民が集まって議決した。その背景には、軍船の漕ぎ手として戦争に参加した下層市民が、国政への参加を求めたことがある。

司法も、一般市民から抽選で選ばれた裁判員が民衆裁判所で判決を決定した。1年任期で交替する6000人もの裁判員から成る大がかりな組織である。

ペリクレスのアテネでは、この裁判員への日当導入を手始めに、さまざまな形で富の再分配を行う。民会に出席するともらえる民会手当、祭典で上演される演劇を見る市民に支払われる観劇手当、評議会の評議員やある種の役人に支払われる日当などである。加えて、軍船の漕ぎ手や遠征に出かける市民戦士への莫大な日当も、ペリクレス時代には支払われていた。

これらの施策は、今でいう富の再分配として高く評価する向きもある。しかし現代における再分配政策と同じく、政府の財政を悪化させると同時に、人々の勤労精神を弱める側面があるから、長い目で見ると経済の発展を妨げかねない。

そうした問題をはらむ再分配政策のうち、最も大規模といえるのが、冒頭に触れたパルテノン神殿の建設である。ここでもペリクレスが指導的役割を果たす。

パルテノン神殿はペルシャ戦争で破壊され、再建が課題となっていた。再建は前447年に着工。神殿本体は前438年に一応完成したが、彫刻などの装飾が仕上がって神殿全体が竣工したのは前432年のことである。神殿内に安置される巨大なアテナ女神像や神域の入り口を飾る前門も含めて、総合的な基本構想は事実上ペリクレスによる。

ペリクレスがアクロポリス再建全体に費やした金額は総計2000〜3000タラントと推定される。アテネの通常の年間国家経費をはるかに上回る金額だった。

膨大な工事費には、今やアテネの思うがままとなっていたデロス同盟の資金が盛んに転用された。これにはさすがに国内からも反対の声が上がる。

これに対しペリクレスは「神殿建築は、それに参加する多数の市民に手当を支給するよすがとなり、その懐を潤すであろう」と反論した(伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』)。神殿建築という公共事業を、富の再分配政策としてはっきり意識していたのである。

しかし財源を召し上げられる側の同盟国は、当然不満を抱く。同盟脱退を望む国も出てくるが、ペリクレスは武力でこれを抑圧した。こうして、アテネがギリシャ随一の富裕国として他国を隷属させ、帝国支配を実現するかのような情勢になる。多数のポリスが自由と独立を保ったかつてのギリシャからは様変わりである。

前431年に起きたペロポネソス戦争中、ペリクレスは病死する。同戦争でアテネはスパルタに敗れ、ギリシャは対立・抗争を繰り返す時代に入っていく。

アクロポリスにそびえるパルテノン神殿の姿は、軍事同盟の中心国で行われる民衆を喜ばせるための再分配政策が、周辺国の自由と独立を奪いかねないという、現代にも通じる教訓を投げかける。

<参考文献>
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ』(世界の歴史5)中公文庫
橋場弦『民主主義の源流』講談社学術文庫
伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史』講談社学術文庫

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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