2018-09-30

教育は国家の仕事か

安倍晋三首相が打ち出した教育無償化に対し、野党やメディアの批判は及び腰です。野党・民進党はもともと消費税率引き上げによる増収分を教育無償化などに使うと主張していましたし、メディアの多くは財源不足を指摘したり改憲の突破口に利用されることを心配したりはしても、教育無償化そのものにはむしろ肯定的です。

けれども9月28日の投稿「タダより高いものはない」で書いたように、教育無償化とは教育の費用を税金で賄うことです。それは教育に対する国家の支配を強めます。国歌・国旗問題などでは教育に対する国家の干渉に強く反発する野党やメディアが、教育無償化にほとんど何の警戒も示さない姿には、危ういものを感じます。

かつて国家の教育関与に強く警鐘を鳴らした思想家がいました。18〜19世紀ドイツの人文学者、ウィルヘルム・フォン・フンボルトです。フンボルトペンギンで有名な博物学者、アレクサンダーの兄で、文学者のゲーテやシラーとも交流がありました。

フンボルトが教育の目的と考えたのは、ドイツ語でいうBildung(ビルドゥング)です。日本語で「教養」とも「陶冶」とも訳されます。つまりフンボルトにとって教育とは、教養の習得であり、人格の陶冶でした。

公教育は国家の安定を目的とし、市民・臣民の育成をめざします。しかしこれは個人の人格育成には役に立たないどころか、有害ですらあるとフンボルトは考えました。

なぜなら人間は自身の決断にもとづく行動のみを通じて、自分を鍛えることができるからです。もしどのように行動すべきかを国家が決定することになれば、人間はつねに他人の知識や意思に依存してしまいます。

フンボルトはこう強調します。「概して、教育はただ、特定の、人間に与えられる市民的形式を考慮することなしに、人間を形成しなければならない。だから国家は不要なのだ」(吉永圭『リバタリアニズムの人間観』より)

最近日本でも教養の復権が叫ばれます。もし俗物根性からでなく、本気で教養が大切だと考えるなら、フンボルトがいうように、教育から国家を排除しなければなりません。自立した教養ある人間を育てることと、国家が統治しやすい人間をつくることとは相容れないからです。(2017/09/30

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