ヒトラーの率いるナチスは、1923年のミュンヘン一揆に失敗した後、合法路線に転じ、ベルサイユ条約の破棄・大ドイツ国家の建設・反ユダヤ主義・不労所得の廃止などを唱え、大衆宣伝や突撃隊(SA)の行動力によって、既成政党に絶望した農民や中間層の支持を集めた。
1932年の総選挙で第一党に躍進したナチスは、1933年1月にヒトラー内閣を樹立した。
ナチスは国会議事堂放火事件を利用して共産党を弾圧したほか、3月には政府に立法権を与える全権委任法を成立させ、ナチス以外の政党や団体を解散させて、わずか半年で一党独裁体制を確立した。1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼ねて総統となった。
ナチスの独裁体制と思想をナチズムといい、イタリアで起こったファシズムの一種とみられている。ファシズムは自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする。
このナチズムについて、しばしばある誤解が見受けられる。共産主義に反対したことから、経済体制としては資本主義に分類されるという見方がそれだ。
しかし、資本主義が政府の介入を排した自由な市場経済に基づく体制だとすると、ナチズムがそれに当てはまるとは考えにくい。実態を見ていこう。
1933年2月20日、25人ほどの実業家の一団が、秘密会議のために当時の帝国議会議長ヘルマン・ゲーリング邸に召集された。招かれた中にはドイツ産業界のリーダーたちがいた。やがてヒトラー首相が現れ、演説を始めた。「左翼との闘争の次の局面は3月5日の選挙後に始まる。ナチスが国会で33議会追加できれば、反共産党法案を合憲手段で可決できる」という内容だった。これに対しドイツ実業界の大半は、喜んで十分な準備資金を用意した。
英歴史学者アダム・トゥーズ氏は、この秘密会合とその結果について「ドイツ実業界がヒトラーの独裁体制樹立をどれほど積極的に支援したかを示す最も悪名高い例だ」と述べる。それだけでなく「実際あらゆる状況で、抵抗が予想されそうな局面においてさえ、政権の政治的代表者たちはドイツ実業界に積極的協力者を見出した。専制計画、再軍備、そして多くの新たな規制機関でさえ、すべてドイツ産業界が好意で提供した経営専門知識による支援を受けていた」と指摘する。
ナチスの支配するドイツでは、企業が政府の介入に抵抗するどころか、進んで協力し、ほとんど一体化していた。このような体制を自由な資本主義とは呼びにくい。
ナチス経済の実情をさらに詳しく見ていこう。
巨大化学企業IGファルベン社はドイツのみならず、世界最大の民間企業の一つだった。 もともと他国間貿易を重視し、ドイツ産業界の自由主義派に属していた。それがある事業をきっかけに、ナチス政権と親密な関係を結ぶ。
1926年、同社はドイツ中部のロイナ工場で、石炭をガソリンに変える錬金術じみた製法、人造石油の設備建設に世界で初めて着手した。この計画は、いつの日か石油は枯渇するという見通しが動機になっていた。
ところがその見通しは見事に裏目に出る。石油不足の予測が探査ブームを巻き起こし、1920年代末にはベネズエラ、米カリフォルニア、オクラホマ、テキサス各州での開発により、世界の原油市場は供給過剰になった。追い打ちをかけるように、1930年10月、ブラック・ジャイアントの異名をとる東テキサス油田が発見された。数カ月のうちに世界の原油価格は暴落し、IGファルベン社による人造石油への投資は経済的根拠を失った。事業に未練のある同社は、自給自足経済を目指すナチスに接近する。
その年末には航空省と陸軍両方の後押しで、財務省がいわゆるガソリン契約の条項を固めた。国が資本投資の最低5%の収益をIGに保障する代わりに、IGは人造石油の設備を年間生産量35万トンにまで拡大する責務を負った。たとえ市場価格が安価な輸入品によって下がっても、国が補助金でIGの収益を保障した。その一方で、5%を超える収益はすべて国に納めた。第二次世界大戦終結後に開かれたニュルンベルク国際軍事裁判で、IGファルベン社とナチス政権との親密な関係はドイツ産業界のナチスとの「野合の象徴」とされた。
1934年秋から1935年春にかけて、政府によって業界組織の新たな枠組みが強制された。各産業部門で多数存在した自主的な業界団体がまとめられ、国家集団(商業、銀行、保険など)、経済集団(工業、製鉄、機械など)、専門集団の各階層組織に組み入れられた。当初、経済集団の主な役割は国家経済省と個々の企業との連絡係だったが、1936年以降、加入企業の経営内部にまで立ち入る権限を与えられた(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』)。まさに官民一体の体制といえよう。
これに先立つ1933年2月、ナチス政府は政令で、私有財産を保障するワイマール憲法153条を無効とした。これにより、資本主義の基礎である私有財産制度が根底から揺らぐことになった。
私有財産の権利があれば、事業主は自分の製品・サービスを自由に売れるはずだ。しかしナチス政権の下でそれはできなかった。販売店が価格を上げるには、価格委員会の特別な許可を得なければならない。値上げの要請は、まずグループのリーダーの認証を受けなければならない。値上げの必要性の詳細な説明と、生産コストや流通コストなどの関連データも添えなければならなかった。
またナチスの官僚たちは、財界や金融界の有力者たちに、危険で採算が合わないと思われる事業を強要できた。
エコノミストのギュンター・ライマンは当時の経済界のムードを描写し、「ファシズムのもとでの資本家は、単に法律を守る市民であるだけでなく、国家の代表者に従順でなければならないのだ。彼は、権利を主張してはならないし、私有財産権がまだ神聖であるかのように振る舞ってはならない。私有財産をまだ持っていることを総統に感謝しなければならない」と書いている。
またライマンによると、あるドイツの事業家は米国の知人に宛てた手紙で、「公式には我々はまだ独立したビジネスマンであるという事実にもかかわらず、ロシア(ソ連)の制度との違いは、あなたが考えているよりもずっと小さいのです」と述べた(『吸血鬼経済』)。
経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは「社会主義実現には、二つの類型がある」と指摘する。第一はロシア型で、工場・商店・農場といった生産手段は形式上、国有化され、公務員によって経営される政府の部局である。第二はドイツ型で、生産手段の私有を名目上、保持しているものの、企業経営者は政府の命令に無条件で服従しなければならない。ミーゼスは「これは資本主義の名目で偽装した社会主義である」と強調する(『ヒューマン・アクション』)。
ナチス経済の実態に照らせば、ミーゼスが言うようにそれは資本主義ではなく、「偽装した社会主義」と呼ぶのがふさわしいだろう。このナチスドイツの経済体制は、同時代の日本の政策構想にも大きな影響を及ぼしていく。
ナチスの独裁体制と思想をナチズムといい、イタリアで起こったファシズムの一種とみられている。ファシズムは自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする。
このナチズムについて、しばしばある誤解が見受けられる。共産主義に反対したことから、経済体制としては資本主義に分類されるという見方がそれだ。
しかし、資本主義が政府の介入を排した自由な市場経済に基づく体制だとすると、ナチズムがそれに当てはまるとは考えにくい。実態を見ていこう。
1933年2月20日、25人ほどの実業家の一団が、秘密会議のために当時の帝国議会議長ヘルマン・ゲーリング邸に召集された。招かれた中にはドイツ産業界のリーダーたちがいた。やがてヒトラー首相が現れ、演説を始めた。「左翼との闘争の次の局面は3月5日の選挙後に始まる。ナチスが国会で33議会追加できれば、反共産党法案を合憲手段で可決できる」という内容だった。これに対しドイツ実業界の大半は、喜んで十分な準備資金を用意した。
英歴史学者アダム・トゥーズ氏は、この秘密会合とその結果について「ドイツ実業界がヒトラーの独裁体制樹立をどれほど積極的に支援したかを示す最も悪名高い例だ」と述べる。それだけでなく「実際あらゆる状況で、抵抗が予想されそうな局面においてさえ、政権の政治的代表者たちはドイツ実業界に積極的協力者を見出した。専制計画、再軍備、そして多くの新たな規制機関でさえ、すべてドイツ産業界が好意で提供した経営専門知識による支援を受けていた」と指摘する。
ナチスの支配するドイツでは、企業が政府の介入に抵抗するどころか、進んで協力し、ほとんど一体化していた。このような体制を自由な資本主義とは呼びにくい。
ナチス経済の実情をさらに詳しく見ていこう。
巨大化学企業IGファルベン社はドイツのみならず、世界最大の民間企業の一つだった。 もともと他国間貿易を重視し、ドイツ産業界の自由主義派に属していた。それがある事業をきっかけに、ナチス政権と親密な関係を結ぶ。
1926年、同社はドイツ中部のロイナ工場で、石炭をガソリンに変える錬金術じみた製法、人造石油の設備建設に世界で初めて着手した。この計画は、いつの日か石油は枯渇するという見通しが動機になっていた。
ところがその見通しは見事に裏目に出る。石油不足の予測が探査ブームを巻き起こし、1920年代末にはベネズエラ、米カリフォルニア、オクラホマ、テキサス各州での開発により、世界の原油市場は供給過剰になった。追い打ちをかけるように、1930年10月、ブラック・ジャイアントの異名をとる東テキサス油田が発見された。数カ月のうちに世界の原油価格は暴落し、IGファルベン社による人造石油への投資は経済的根拠を失った。事業に未練のある同社は、自給自足経済を目指すナチスに接近する。
その年末には航空省と陸軍両方の後押しで、財務省がいわゆるガソリン契約の条項を固めた。国が資本投資の最低5%の収益をIGに保障する代わりに、IGは人造石油の設備を年間生産量35万トンにまで拡大する責務を負った。たとえ市場価格が安価な輸入品によって下がっても、国が補助金でIGの収益を保障した。その一方で、5%を超える収益はすべて国に納めた。第二次世界大戦終結後に開かれたニュルンベルク国際軍事裁判で、IGファルベン社とナチス政権との親密な関係はドイツ産業界のナチスとの「野合の象徴」とされた。
1934年秋から1935年春にかけて、政府によって業界組織の新たな枠組みが強制された。各産業部門で多数存在した自主的な業界団体がまとめられ、国家集団(商業、銀行、保険など)、経済集団(工業、製鉄、機械など)、専門集団の各階層組織に組み入れられた。当初、経済集団の主な役割は国家経済省と個々の企業との連絡係だったが、1936年以降、加入企業の経営内部にまで立ち入る権限を与えられた(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』)。まさに官民一体の体制といえよう。
これに先立つ1933年2月、ナチス政府は政令で、私有財産を保障するワイマール憲法153条を無効とした。これにより、資本主義の基礎である私有財産制度が根底から揺らぐことになった。
私有財産の権利があれば、事業主は自分の製品・サービスを自由に売れるはずだ。しかしナチス政権の下でそれはできなかった。販売店が価格を上げるには、価格委員会の特別な許可を得なければならない。値上げの要請は、まずグループのリーダーの認証を受けなければならない。値上げの必要性の詳細な説明と、生産コストや流通コストなどの関連データも添えなければならなかった。
またナチスの官僚たちは、財界や金融界の有力者たちに、危険で採算が合わないと思われる事業を強要できた。
エコノミストのギュンター・ライマンは当時の経済界のムードを描写し、「ファシズムのもとでの資本家は、単に法律を守る市民であるだけでなく、国家の代表者に従順でなければならないのだ。彼は、権利を主張してはならないし、私有財産権がまだ神聖であるかのように振る舞ってはならない。私有財産をまだ持っていることを総統に感謝しなければならない」と書いている。
またライマンによると、あるドイツの事業家は米国の知人に宛てた手紙で、「公式には我々はまだ独立したビジネスマンであるという事実にもかかわらず、ロシア(ソ連)の制度との違いは、あなたが考えているよりもずっと小さいのです」と述べた(『吸血鬼経済』)。
経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは「社会主義実現には、二つの類型がある」と指摘する。第一はロシア型で、工場・商店・農場といった生産手段は形式上、国有化され、公務員によって経営される政府の部局である。第二はドイツ型で、生産手段の私有を名目上、保持しているものの、企業経営者は政府の命令に無条件で服従しなければならない。ミーゼスは「これは資本主義の名目で偽装した社会主義である」と強調する(『ヒューマン・アクション』)。
ナチス経済の実態に照らせば、ミーゼスが言うようにそれは資本主義ではなく、「偽装した社会主義」と呼ぶのがふさわしいだろう。このナチスドイツの経済体制は、同時代の日本の政策構想にも大きな影響を及ぼしていく。
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