この記事は、無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)の視点から、最小国家主義(Minarchism)—権利保護のみに限定された小さな政府を支持する立場—を厳しく批判しています。著者は、最小国家主義は自由主義と国家主義の間の妥当な妥協点などではなく、むしろ「最悪の種類の国家偶像崇拝」であると論じています。
主な論点
1. 最小国家主義は「国家主義ライト」に過ぎない
国家の定義はその「規模」ではなく、「暴力と強制の独占」というその「性質」によって決まると主張しています。
「少し濡れているのも、濡れていることには変わりない」という比喩を用い、国家がどれほど小さくても(最小国家であっても)、それは依然として「国家」であり、本質的に人々の権利を侵害する存在であることに変わりはないと論じています。
2. 「原則」と「選好(好み)」の混同
著者は、最小国家主義者が「原則」と「選好」を混同していると批判します。
例えば、「税率が低い方が、高い税率よりマシだ」と主張するのは個人の「選好」に過ぎません。
真のリバタリアンの原則に照らせば、「課税は窃盗(財産権の侵害)」です。窃盗の額が少ないからといって、それが窃盗でなくなるわけではありません。したがって、最小国家(少ない侵害)を支持することは、原則に基づく行動ではありません。
3. 「保証人」としての国家という幻想
最小国家主義者の致命的な誤りは、国家を正義、平和、そして自然権の「必要不可欠な保証人」と見なしている点です。
彼らは国家なしで権利が守られる世界を想像できず、「制限された国家」を作ろうとしますが、著者はこれを幻想だと断じます。歴史的に見て、国家は本質的に権力と暴力を拡大する「獣」であるため、制限を設けようとしても必ず肥大化し、暴走するからです。
4. なぜ「最悪」の国家主義者なのか
著者は、社会主義者などの他の国家主義者よりも、ある意味で最小国家主義者の方が「タチが悪い(最悪である)」と見なしています。
他の国家主義者は、国家を「自分たちの目的を強制するための権力の道具」として(ある意味正しく)認識しています。
対して最小国家主義者は、国家を「自由をもたらすもの」「権利の守護者」として美化・理想化しています。
人々の権利を侵害する張本人である「国家」を道徳的に高い地位に祭り上げているという点で、彼らの態度は「偶像崇拝(Idolatry)」であり、最も深く国家主義に侵されていると結論付けています。
結論
著者は、リバタリアンとしての唯一の一貫した解決策は、国家という「獣」に首輪をつけようとすること(これは常に失敗する)ではなく、国家を廃止すること(獣を殺すこと)であると述べています。国家を制限する無駄な議論に労力を費やすのではなく、国家なしで社会問題を解決する方法を模索すべきだと説いています。
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