ミーゼス研究所リサーチフェロー、ワンジル・ンジョヤ
(2024年11月5日)
米国の歴史における奴隷制の役割については、これまで多くのことが語られてきた。その歴史は短い記事では語り尽くせないが、奴隷制の賠償をめぐる現代の議論に照らして、奴隷制を支える倫理原則のいくつかを明らかにすることは重要である。
Modern progressives are obsessed with collective guilt, demanding that Americans pay reparations for slavery even though it ended in the US 160 years ago. However, those seeking reparations violate natural law. | @WanjiruNjoyahttps://t.co/58vG9dVxHe
— Mises Institute (@mises) November 5, 2024
リバタリアン思想家ロスバードの観点からすれば、奴隷制度がなぜ悪いかといえば、自己所有の原則に反するからである。自己所有権はすべての人間に与えられた自然権であり、そこから、いかなる人間も他人を所有することはできないということが導かれる。
ローマ法において奴隷制は合法だった。この点に関してローマ法は明らかに非倫理的であり、不道徳である。しかし歴史的な法規範が倫理的に不十分であったと宣告することと、歴史的な過ちを是正するために今なすべきことがあると主張することは、まったく別のことである。
アフリカの奴隷商人たちが自分たちの親族を集めて奴隷として売ったのは間違っていたと認めることはできるが、ナイジェリアのような現代のアフリカ国家がそうした歴史的な犯罪を償わなければならないと、今さら要求すべきなのだろうか。
同様に、アラブの海賊が何世紀にもわたってイギリス諸島を襲い、イギリス人らを故郷から拉致して北アフリカの奴隷市場で売りさばいたのは間違っていたが、だからといって、現代のアルジェリアやチュニジアがイギリスに賠償金を支払う必要があるのだろうか。
倫理的な問題として、歴史的な犯罪の代償を現代人が払うべきだという主張は、犯罪に対する罰は犯罪者本人にのみ与えられるものであり、その子孫には与えられないという基本的な道徳原則を見落としている。道徳的責任は集団的なものではなく、個人的なものである。
今日の納税者に金銭的な罰則を課すことによって歴史的な過ちを正すことの実現可能性について、功利主義的な考慮が生じるかもしれない。納税者は、国の歴史上起きたすべての歴史的過ちを償うよう求められるのだろうか。そうでないとしたら、どのように決めるのだろうか。
倫理的な問題については、奴隷制度は最悪の歴史的不正義であり、それゆえ他のすべての歴史的不正義とは区別される、という見解がときどき唱えられる。だが奴隷制は殺人より悪いわけではない。殺人の被害者は、奴隷制の被害者よりも賠償を受ける権利がないのだろうか。
「誰が最も苦しんだか」という尺度の問題点は、苦しみは主観的であり、誰の苦しみが最悪であったかという比較には原理的な根拠がないということである。倫理的な立場は、誰が最悪の苦しみを味わったかを評価しようとするのではなく、健全な道徳的原則に基づくべきである。
苦しみの大きさを比較しようとすれば、すべての集団は、自分たちの集団が被った歴史的な悪が軽んじられ、嘲笑されていると感じる。被害者論に明確な「勝者」をもたらすどころか、すべての集団がそれぞれの不満にさらに深く浸ることになるだけである。
歴史的な不満のために納税者から金を受け取る資格があるのは誰なのか、彼らにいくら支払うべきなのかを評価しようとするのではなく、その前提全体を否定し、集団的罪悪と集団的処罰の罠に陥らないように警戒すべきである。
(次を抄訳)
Slavery and Collective Guilt | Mises Institute [LINK]
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