2022-04-18

NATO拡大をめぐるクリントンの歴史修正主義

安全保障専門家、メルビン・グッドマン(2022.4.15)

ビル・クリントン元大統領は最近、1990年代の北大西洋条約機構(NATO)の拡大は、ロシアが帝国主義に回帰しかねないという安全保障上の認識に基づく決断だったと主張している。 実際のところ、クリントンの決断は国内政治に基づくものであり、東西関係の将来とはほとんど関係がない。

クリントンは1996年の再選前、共和党の対立候補者はロバート・ドール上院議員(当時)になり、90年代半ばにクリントン政権がNATOの拡大に尻込みしていたことを衝くと考えた。民主党の成功の鍵はイリノイ、ミシガン、オハイオ、ウィスコンシンといった中西部の重要州における東欧系住民の支持だった。

さまざまな民族代表団がワシントン入りし、国務省の欧州専門家などの反対を押し切って、議会やホワイトハウスに働きかけ始めた。クリントンは再選のために、東欧系住民によるNATO加盟の要求に応えることにした。冷戦時代にその使命を終えたと多くの人が考えていた同盟の拡大に動いたのである。

クリントンはNATOで特別な協議の場を提供すれば、ロシアをなだめられると考えた。 大統領選の半年前(*)、クリントンはエリツィン露大統領と「NATO・ロシア基本文書」(1997年5月)に署名した。しかし定められた合同決定や協議・調整は実現せず、露国内でエリツィン批判が強まった。 

チェコ、ハンガリー、ポーランドがNATOに加盟した年(1999年)は、ロシアでプーチンが新大統領に決まる一方で、NATOが集団安全保障を初めて発動し、セルビアを空爆しコソボから撤退を強いた年でもある。 プーチンは就任当初から、クリントンによるこれらの決定に怒り、屈辱を感じていた。

オルブライト米国務長官とクラークNATO軍最高司令官から、NATOの軍事力を強化するようクリントンに圧力がかかっていた。 オルブライトらは空爆の威嚇だけでセルビアのミロシェビッチ大統領を威圧できると助言したが、実際は3カ月近くにわたり、NATO軍は500人以上の民間人を殺害した。 

エリツィンはクリントンに(ウクライナなど)旧ソ連共和国をNATOに入れないよう求めたが、クリントンは「欧州の平和と安定に対する新たな脅威」への対応だからと拒否した。まるでルーマニアとポーランドにある米国のミサイルは、ロシアではなくイランに向けられている、と言うようなものだ。 

(次より抄訳)
Clinton's Revisionism on NATO Expansion - CounterPunch.org

*クリントンの時系列を整理。NATO・ロシア基本文書の署名は大統領選の「半年後」の誤りか?
1992年11月 米大統領に初当選
1993年 1月 第42代大統領に就任
1996年11月 ドール共和党候補を破り再選
1997年 1月 2期目就任
1997年 5月 NATO・ロシア基本文書に署名
1999年 3月 チェコ、ハンガリー、ポーランドがNATOに加盟
1999年 3〜6月 NATO軍がセルビア空爆

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