2017年7月1日土曜日

「公」教育の危険

子供を監督すべきなのは、親か、それとも国家か。これが教育問題のカギである。自由な社会では、各人に自分自身と自分の生み出したものを所有する権利がある。人が生んだ中で最も大切な一つである子供もまた、その人の管理下に置かれる。

各自が教育を受け、自分の能力を十全に伸ばすためには、学習が自由でなければならない。人間の理性と人格にとって、暴力から自由であることは不可欠である。ところが国家は、その存在そのものからして暴力と強制に基づいている。

国家が子供を「公有」し、子供の「私有」を否定すれば、教育においても国家の原理が押しつけられるのは明らかである。とりわけ教え込まれるのは国家への服従だ。十全な学習の自由を求める人間の精神は、圧政になじまないからである。

Murray Rothbard, The Danger of "Public" Education (2017.6.26, zerohedge.com)

1 件のコメント:

  1. 何から何まで全てを自分の自由にやるとなると、お金がとてつもなくかかる。子供の教育を自由にやりたければ自分で教えるか新しい学校を作ればいい。警察に頼らず自分で警備員を雇えばいい。お金も自分で独自発行すればいいが、相手に使わせるにはドルや円と交換できないとならない。何処まで自由を求めるか各自の立場で異なるが、より現実的な議論に価値がある。
    人間は自由を求めるだけの存在ではなく、分業によって楽を追求する面もあると自分は考える。分業関係があるから生活が楽になるが、対価のお金を支払う必要がある。高値でカモにされれば自由はそれだけ減少している。
    一人の人間には、家族との関係、町内や地域との関係、会社員などの所属組織との関係、市場での取り引き関係、国家との関係など多層多重の関係がある。それぞれの関係ごとに自由の程度を考える事が出来る。個人と国家の関係だけでなく幅広く考えないと優れた思想とは言えない。
    政治の自由主義にも色々な立場がある。先ずよく語られる左右の違い。日本の右翼は経済的自由つまり財産権を追求する立場。一方、日本の左翼の本質は自由を否定する社会主義や共産主義だが、自由主義国の日本で生き残るために言論の自由を追求するリベラルという仮初めの立場。あと、ほとんど語られ無い上下の違いがあり、社会主義、共産主義、そして、官僚権威主義は、全体主義に分類され、上下では、下に配置され、国民の自由を奪う権力を崇拝し、大きな政府を良しとする思想である。一番上に配置されるのがリバタリアニズムと呼ばれる立場で、税が少ない小さな政府を良しとする。中には無政府主義に行き着く者もいる。日本の自由民主党は、右翼であり官僚権威主義でもあると感じるが、皆さんはどう思われるか。
    自由主義の下では、思想と言論の自由を互いに認め合う。だから、誰もが自由に意見を述べて議論できて、自分の意見を修正発展させる事もできる。何が正しいかは、環境・時期・立場で異なる。意見の変更や間違いの訂正を堂々と公開すればよい。過ちては則ち改むるに憚ること勿れ。

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