市場経済というと、「弱肉強食」という言葉がきまってついてくる。しかしその形容は間違っている。暴力に物をいわせて弱いものから財産を取り上げたり、無理やり何かをやらせたりするのは、互いの合意にもとづく市場経済ではなく、政府である。
経済学者ゲイリー・ギャルズ(Gary Galles)は「資本主義制度を弱肉強食として描くのは、現実とは正反対」と断じる。資本主義の土台となる私有財産は、自発的な合意によってのみ成り立つ。弱者が自分の権利侵害にすすんで同意することはないから、資本主義は権力にもとづく強制から弱者を守る。哲学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer)の言葉を借りれば、資本主義は「弱者を強者から守ることにこだわる」。
弱肉強食という言葉は、戦争にあてはめることはできる。しかし戦争は市場の失敗ではない。政府による政府の攻撃である。また、政治にもあてはまる。法学者ブルーノ・レオニ(Bruno Leoni)が述べたように、政治は戦争と同じく、「少数者を服従させ、敗者として扱うためだけの手段」になりつつある。これらは政府の所業であり、自由な合意で成り立つ市場経済とはまったく無縁である。
動物の世界における競争は、限られた自然の資源をめぐるゼロサムの争いである。しかし人間は他の人のために生産するし、誰もが取引を通じて互いに得をすることができる。だから市場における競争は、大幅なプラスサム・ゲームとなる。ある人の利益は同時に他の人の利益にもなる。
人と動物の競争の違いは、アダム・スミスの『国富論』第2章にも書かれている、とギャルズは指摘する。人には「ものを交換しあう性質」があり、「この性質は人類に共通しており、他の種の動物にはみられない」。動物の場合、「二匹の犬がじっくりと考えたうえ、骨を公平に交換しあうのを見た人はいない」。しかし「人は交渉や交換、売買によってそれぞれが必要とする助力のかなりの部分を手に入れて」いる。人間社会に分業が始まったのは、ものを交換しあうこの性質のためである。
ギャルズは最後にこうまとめる。
弱肉強食という言葉は、戦争や政治、政府の失敗を理解するにはいくらか役に立つ。これらがすべて自由を破壊する行為だからである。しかし参加者の権利尊重を旨とする経済の自由を、「なんでもあり」で血みどろの生存競争として描くのはおかしい。そのような「俺が勝ち、お前が負け」という行動は、天然の限られた資源に原因がある。しかし限られた資源しかないのは、生産や自発的交換がない場合だけである。資本主義にはあてはまらない。資本主義は他のいかなる社会的「発見」にもまして、ゼロサムの争いの代わりにウィンウィンの可能性を高めてきた。自分自身とその生産物に対する所有権が尊重されるかぎり、つまり合意が自発的であるかぎり、生産と交換を通じてすべての人が得をする。互いに利益をもたらす人間の社会は、弱肉強食の世界とは似ても似つかない。
弱肉強食という野蛮な比喩がふさわしいのは、ギャルズがいうとおり、市場ではなく政治である。にもかかわらず政治家が繰り返しこの決まり文句を口にするのは、おそらく「犯人はあいつだ」と無実の人を指さす犯罪者と同じ心理からではないだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿