議長声明では、インド太平洋地域で「ASEANが中心的かつ戦略的な役割を果たす」と明記。日米が「自由で開かれたインド太平洋構想」を推進する中、その中核に位置する地域として自ら構想に関与する姿勢を示し、存在感の向上を狙っている。
東南アジアは近年、世界経済の中で存在感を増している。最近こそ米中貿易戦争のあおりで輸出が減速しているものの、一方で中国に代わる生産拠点として海外企業から投資が増える動きもある。独自のインド太平洋構想を打ち出す背後には、荒波にも動じない、したたかな経済力に対する自信が感じられる。
こうした中で、東南アジアの歴史にもあらためて注目が集まっている。それを雄弁に物語るのは、最近の世界史教科書の記述ぶりだ。
以前の教科書における東南アジアの扱いは、インドや中国にとっての辺境でしかなかった。その背景には、歴史学会において東南アジア史の扱いがインド史や中国史の延長にあったこと、陸上中心の一国史観ではとらえにくい海域国家の存在があったことがあげられる。
これに対し現在の東南アジア史では、固有な文化が東南アジアにあったことを基調として、陸上の領域国家ではない海域国家を強調するようになった。それだけでなく、古代から現代に至るまでさまざまな世界商品を産出し続けた地域であること、さらにそういった生産を背景に世界中の商人を集めたことなどが強調される。辺境から世界史の中心に躍り出た感すらある(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分化会編『世界史をどう教えるか』)。
これはグローバル経済の特色でもある。ある教科書の表現を借りれば、東アジアや南アジアの文明世界からみれば東南アジアは辺境だが、東西交易が盛んになると、その辺境が二つの世界を結ぶ中心になるのである。
東南アジアの古い歴史に根付くグローバル経済の伝統を理解するキーワードは、「港市国家」である。
港市とは港の機能を中心に形成された都市で、造船基地、水や食料の補給基地、風待ち港や嵐の際の避難港など、数多くの機能をもつ。港市を基礎とする国家が港市国家である。中継するだけではなく、香辛料、象牙、真珠、錫などの多様な東南アジアの産物を供給した。
インド亜大陸や中国大陸は世界有数の大生産地であり、大市場である。それらを結ぶ遠隔地交易は大きな利益を生み出すが、古代の航海技術では多くの中継地が必要となる。その中継地として港市国家が東南アジア沿岸部に数多く誕生した。
まずマレー半島を抜けてすぐのメコン川下流域に、クメール人が最初の港市国家である扶南をつくった。扶南の港オケオからは、ローマの金貨、インドのヴィシュヌ神像、サンスクリット語を記した錫片、後漢の銅鏡などが出土しており、この港市国家が東西文化の入り混じる場所であったことを示している。
さらに2世紀末には、ベトナム中部にチャム人の港市国家チャンパー(林邑)が誕生した。ベトナム北部は後漢の交趾郡と日南郡の支配下にあり、中国文化の影響を受けていたが、チャンパーでは独自のサーフィン文化を基礎に、インド文化が融合し、インド風の寺院や神像が数多く作られた。
こうしてインドと中国を結ぶ最初の海洋ネットワークが誕生した。ローマ帝国から季節風交易のネットワークがインドまで伸び、インドから東南アジアまでを文化圏に含み、東南アジアの港市国家は中国南方の港市と交易をしていた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
2世紀半ば、「大秦王安敦の使者」を名乗る西洋人の一団が、日南郡に到達した。大秦王安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことだと考えられている。東南アジアの歴史上、注目されるのは、この使者が訪れた日南郡は現在のベトナムであり、沈香(代表的な香木の一種)の産地だったことである。
港市国家の特徴として指摘されるのは、寛容な文化である。一般に中継地には複数の価値観をもった人々や物が集まる。中継地はそれらの仲介を使命としている。どちらか一つの価値観だけをもつわけにはいかない。東西の世界からは独立的な政体が生まれ、人種や異文化に寛容な文化が育つ。
これは港市国家に限らず、商業を通じた文化交流の特徴でもある。たとえば、東南アジアはインド文化の深い影響を受けているが、インド文化が入ってきたのは、インドから多くの植民があったのではなく、長年にわたりインド人航海者や集荷人たちがインド文化を各地の社会に徐々に伝えていったためだった。インド文化の平和的拡張だった(石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』)。
17世紀に航海技術の進歩が大量輸送を可能にし、産地と市場を直接結ぶ直航ルートが開発されると、物の仲介機能がいらなくなり、港市国家はいったん衰退に向かった。
しかし、20世紀後半、全地球が一つの市場経済の下に統一されたとき、それぞれの地域の情報と資本を仲介する新しい港市国家が生まれた。たとえば、シンガポールはマラッカ海峡に面した小さな都市国家だが、アジアの先端工業技術の中心の一つであり、アジアの金融情報のセンターである。そこには、宗教と人種への寛容性というかつての港市国家の伝統が継承されている。
東南アジア史を世界史の中心に押し上げたのは、陸中心の歴史観から海中心の歴史観への転換だった。陸中心の領域国家を前提にした国家の枠組みにとらわれると、陸地の巨大な所有こそが力の原点といった誤った考え方にたどり着く。この見方で最も誤解される存在が旧ソ連であり、現在のロシアだろう。しかし巨大な陸を所有していたとしても、使える土地でなければ意味はない。
欧州、アジア、アフリカなど陸地を中心に歴史を考えると、経済を通じた相互の結びつきが見えなくなる。東南アジアは大部分の地域が海に面し、海に面していない内陸部は海につながる大河をもつ。それゆえに古くから他の地域と交流をすることが可能だった。東南アジアの歴史を知ることは、陸中心の歴史観を脱し、歴史を海から見る視点を養う一歩にもなるだろう。
<参考文献>
神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分化会編『世界史をどう教えるか』山川出版社
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』ミネルヴァ書房
石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』(世界の歴史13)中公文庫
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)
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