孟子は中国、戦国時代の儒家。名は軻、字は子輿・子車。儒教の始祖・孔子より百年ほど後に生きた人で、孔子の継承者をもって任じ、王道による政治を説いた。
王道は覇道に対する言葉だ。東洋史学者の小島祐馬氏によれば、覇道とは、支配者の利益のために、道徳の仮面を借りて実は力の政治を行うことであり、これに対して王道とは、人民の利益のために力の政治を排して、真の道徳の政治を行うことをさす(『中国思想史』)。孟子の言行を記した書『孟子』(引用は原則、宇野精一訳による。表記を一部変更。カッコ内は篇名)に従って、その思想をたどってみよう。
王道とは、孟子の言葉でいえば、「人に忍びざるの心をもって、人に忍びざるの政治を行う」(公孫丑上)こと、すなわち仁心をもって仁政を行うことである。王道の意義がこのようなものだとすれば、その基本が民を貴ぶことにあるのは当然だ。「民を貴しとなし、社稷(神霊)これに次ぎ、君を軽しとなす」(尽心下)という孟子の言葉は、それを端的に言い表している。
君主と対面しても物おじせず、遠慮のない意見を述べた。斉王から大臣の責任について尋ねられ、「君に国家の安否にかかわるような重大な過失があったときにはおいさめ申し、くり返しいさめても聞き入れられないと、その君を廃して別に一族の中の賢者を君に立てます」(万章下)と答えた。王はさすがに顔色を変えたという。
孟子は民を苦しめる政治を厳しく批判した。あるとき梁王に対し「人を殺すのに、つえで打ち殺すのと刃物で切り殺すのと、違いがありましょうか」(梁恵王上)と問いかけた。王が「別に変わりはない」と答えると、「では刃物で殺すのと政治(のしかたが悪くて)で殺すと違いがありましょうか」とたたみかけた。王は「別に変わりはない」と認めざるをえなかった。
内政で重要なのは経済政策だ。儒家の思想によれば、政治は個人の人格の完成を目的とすべきだが、現実問題として、食うや食わずの生活では難しい。このことを孟子は「恒産なければ、よって恒心なし」(梁恵王上)と喝破した。すなわち、経済上の保証があって初めて道徳は行われるものとする。
孟子が経済保証の具体案として主張したのは、給付金のバラマキなどではなく、減税だ。「井田法」という。正方形の耕地を井字形に9つに区画したところからこう呼ぶ。1里(約400メートル)四方の土地を1井とし、9等分する。周囲の8区画は8戸の家がそれぞれ「私田」として耕し、中心の1区画を「公田」として8戸共同で耕して、為政者にその収穫を納入する。収穫の9分の1を納税するから、税率は約11%になる。孟子にとって、重すぎない税の目安が約1割だったようだ。
商人や旅行者などへの課税は撤廃を唱えた。「関所では人や物の取り締まりをするだけで通行税や関税を取らないならば、天下の旅行者はみな喜んでその君の道路を通りたいと願うだろう」(公孫丑上)と語っている。
さらに減税は先延ばしするのではなく、思い立ったらただちに実行するよう求めた。宋の大夫から「租税を10分の1だけにして、そのほかの関所や市場の税を廃止することは、今年急に実行するわけにもいきません。今年は軽減しておいて、来年からさっぱりとやめることにしたいのですが、どうでしょう」と問われ、例え話を始める。
「ここに毎日、隣から入り込んでくる鶏を盗み取りする人があるとします。だれかその人に『それは君子の行為ではありません』と忠告すると、『では少し減らして毎月1羽ずつ盗むことにして、来年になったらよすことにしましょう』といったらどうでしょう」。そして問いにこう答えた。「正しくないと知ったら、すぐさまやめるまでで、来年を待つことはありますまい」(滕文公下)。重すぎる税は盗みも同然という厳しい考えだ。
孟子が心に基づく仁政を主張する以上、力の政治を排斥するのは当然だ。したがって孟子の王道では戦争を排斥する。絶対的非戦論を唱えたわけではないが、君主が富国強兵のために人民を殺してはならないと主張した。
あるとき、魯の君主が戦争の上手な慎子を将軍に任命して、大国の斉と一戦を交えようとした。これを聞いて孟子が「民に仁義の道を教育もせずに、戦いに用いるのは、民をいたずらに苦しめるというものだ」と言うと、それを聞いた慎子はむっとして不愉快げに「そんなことは、この私の関知しないことです」と言った。孟子はこう説明した。
「戦いもせずにただである者から取って、別の者に領地を与えるというのでも、道に外れたことは、仁者はせぬものだ。まして、人間を殺してまで領地を取ろうなどとはせぬ。君子が君に仕えるには、つとめてその君を正しい道に当たるように、仁道に志さしめるように、誘わねばならないのだ」(告子下)
また、君主が仁政を行わないのに、それをいさめもせず、むしろ欲心を助長するような家臣を次のように厳しく批判した。「君主の欲心のために強引な戦争をして、土地の争奪によって野に満ちるほど人を死なせ、城を争って城いっぱいも人を死なせるようなのは、つまり土地のために人肉を食わせるようなもの。その罪は死んでも償い切れぬ」(離婁上)
孟子は軍事同盟も批判する。「自分は君のために同盟国を獲得し、戦争すれば必ず勝ってみせる」と言い立てる家臣を「民賊」と罵倒した(告子下)。戦争が上手な家臣は極刑に処すべきだとした後で、「諸侯に同盟を結ばせて攻伐せしめる者」は、それに次ぐ重罪にあたると主張した(離婁上)。
権力者におもねらず、民を貴ぶ王道政治の理想を説いた孟子は、中国に古代から伝わる「易姓革命」の思想を重視した。王朝がかわるのは、民に現れた天の意志によるもので、民意に反した政治を行った君主に対する革命は正しいとする。
孟子が革命を大胆に肯定した有名なエピソードがある。夏の桀王、殷の紂王はともに昔の暴君で、それぞれ臣下の湯王、武王によって放逐・誅伐された。この出来事について斉王が「臣でありながらその君を弑してよいものだろうか」と問うと、孟子は答えた。
「仁をそこなう者はこれを賊といい、義をそこなう者はこれを残と申しますが、残賊の人はそれを一夫すなわち一介の平民と申すべきで、君たる資格はありません。残賊の人たる桀・紂は、まさに一夫と申すべきであります。ですから、武王が『一夫なる紂』を誅したということは私も聞いていますが、君たる者を弑したとは、聞いておりません」(梁恵王下)
江戸時代以前、易姓革命の考えは、王朝が移り変わる中国と異なり、皇室をいただく日本にはなじまないとされ、『孟子』を積んだ船はことごとく沈没するといわれたが、もちろん事実ではない。今では文庫本などで気軽に読める。混迷する政治経済に多くの示唆を与える古典といえよう。
2 件のコメント:
易姓革命は確かに日本に馴染まないとされ、中国が常に下剋上で、外国の王朝にも幾度も占領された原因の様に習いました。しかし孟子の言葉を聞くと中華には中華の理屈と正義がある様に思えました。仁義なきものは君の資格なし。残賊は平民であり、一夫を誅したに過ぎない。
そうですね。西洋も中華も権力者に対峙する思想があります。残念ながら日本にはあまり見当たりません。鎌倉仏教がそうだったのかもしれませんけれど。
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