2024-09-29

日中戦争と統制経済

局地衝突から全面戦争へ


満州事変以降、日本政府と軍部は、「満州国」を確保し、さらに権益を拡大するために、華北を「第2の満州国」にしようとする華北分離工作を進めた。これが日中全面戦争の伏線となる。

日中戦争 前線と銃後 (講談社学術文庫)

1937(昭和12)年7月7日、日中両軍が北京郊外の盧溝橋付近で衝突する盧溝橋事件が起きるが、11日には停戦協定が現地で調印された。

ところが、すでに7月10日、陸軍中央は日本本国、関東軍、朝鮮軍から合計約10万人の大兵力を華北に派遣することを決定し、11日には近衛文麿内閣もこれを承認し「重大決意」を声明した。陸軍は現地で再び小規模な衝突が起こったことを口実に27日、派兵を最終決定し、現地軍も28日から総攻撃を開始した。盧溝橋事件の起きた現地では事態が収束したにもかかわらず、むしろ日本国内において、この際、華北分離を実現しようという考えが支配的になり、事態を拡大させたのである(江口圭一『十五年戦争小史』)。

日本軍の戦力動員に伴って、中国側(蒋介石政権)も国内の抗日意識の高まりを背景に、積極的な軍事活動を行なった。本格的な戦力動員を行えば蒋介石はすぐに屈服・妥協すると考えていた日本側の予想は外れる。8月13日には上海で日本海軍の陸戦隊が中国軍と衝突(第2次上海事変)し、同日、日本政府は上海派遣軍の派遣を決定するとともに、海軍も15日より長崎県大村基地からの南京、上海への渡洋爆撃を開始し、戦火は一挙に広がった。

同日、日本政府もそれまで建前としてきた「不拡大方針」を明確に放棄するとともに、国民をこの戦争に集中させるために、国民精神総動員運動を始めた。この官製国民運動によって、ラジオや講演会などを通じて戦意の高揚をはかるとともに、貯蓄奨励、消費節約など政府の経済政策の実践を国民に呼びかけた(大日向純夫他『日本近現代史を読む』)。

戦火が華北から華中に飛び火した段階で、日本側の実質的な戦争目的は、単に華北を国民政府から分離することから、蒋介石政権の打倒へと変わっていった。

1937年9月、蒋介石は共産党との第2次国共合作に踏み切り、日本軍は中国側の激しい抗戦に直面して苦戦する。日本は大軍を投入し、1937年末に首都南京を占領した。その際、日本軍は中国軍捕虜、一般中国人を含めて少なくとも数万人以上を殺害し、国際的な非難を浴びた。南京大虐殺と呼ばれる。

戦時体制と統制経済


日中戦争が全面化すると、第1次近衛内閣は国民を戦時体制に協力させるため、国民精神総動員運動の開始に続き、1938年には国家総動員法を制定した。

同法により、政府は議会の承認なしに、労働力、物資、出版など国民生活の全体にわたって統制する権限を得た。また産業報告会もつくられ、労働運動を吸収していった。前年には、内閣直属の総合国策立案機関として企画院が発足しており、物資動員計画がつくられ、軍需産業には資材や資金が優先的に配分された。このように、日本は明治以来の自由主義経済の体制を変質させ、政治や社会も含め、官僚統制のきわめて強い国家になっていった。

日中戦争が拡大する中で、軍需生産は拡充したが、民需品の生産は減少した。また軍事費をまかなうための赤字国債や日銀券の濫発によって物価が高騰し、多数の兵士の動員で労働力不足になっていった。

そこで1939年、政府は国家総動員法に基づき国民徴用令や価格等統制令を出し、政府の指令で一般国民を軍需産業に動員したり、公定価格を定め、物価の統制をはかった。そのうえで、国民に「ぜいたくは敵だ」のスローガンのもとに、生活の切り詰めを強いた。1940年からは、砂糖、マッチなどの切符制が実施され、代金のほかに国から割り当てられた切符がないと購入できなくなった。

また政府は、地主よりも小作などの耕作者を優遇して、米の生産力を増大させようとしたが、労働力や肥料などが不足したために、1939年を境に、食料生産は低下し始め、食料難が深刻になっていった。そこで1940年から農村では米の供出制が実施され、翌年には国民に対し米が家族数に応じた配給制となった。

経済が戦時体制へと編成替えされるにつれて、軍需産業以外の中小企業者の大部分とその従業員は失業した。中年の失業者には、新参者として工場に勤めても安い賃金では妻子を養うこともできない気の毒な境遇に追い込まれた者が少なくない。徴用の場合にはもっと悲惨な目にあった。作家の永井荷風はこう記している。

「このたび実施せられし徴用令のことにつきその犠牲となりし人びとの不幸なる話は地獄も同様にも聞くに堪へざるものなり。大学を卒業して会社銀行に入り年も四十近くとなれば、地位も進みて一部の長となり家には中学に通ふ児女もある人あり。/しかるに突然徴用令にて軍用品工場の職工になり下り、石炭鉄片などの運搬に追ひ使はれ、苦役に堪へやらずして斃死するもの、また負傷して廃人となりしものも尠(すくな)からず。幸ひにして命つつがなく労働するもその給料はむかしの俸給の四分の一くらゐなれば駐留過程の生活をなす能(あた)はず、妻子もにはかに職工なみの生活をなさざるべからず、涙に日を送る由なり」(橋川文三・今井清一編著『果てしなき戦線』)

国民を犠牲にし、戦時体制を支える統制経済は、アジア太平洋戦争でさらに強まっていくことになる。

国民の自発的な戦争協力


日中戦争下の国民統制について忘れてならないのは、国民の戦争協力は必ずしも国家が強制したのではなく、自発的なものだったという点だ。

すでに述べたように、日中戦争の長期化は、国内体制の総動員化を要求した。政府の制定した国家総動員法は、社会大衆党などの無産政党(社会主義政党)にとって、「社会主義の模型」と受け止められた。無産政党はこの法律によって、国家が資本を統制し、富が再配分されれば、国内体制の「社会主義」化に一歩近づくものと考えた。

1938年に開いた社会大衆党大会で、同党の衆議院議員・麻生久は、社会大衆党が戦争に協力する理由をこう説明した。 「吾々は、現在においても、帝国主義戦争には絶対反対である。しかし今次の支那事変は、民族発展の戦争であって、資本主義改革を要求する所の国内改革の戦争である」

無産政党が国家総動員法を支持した背景には、戦争に協力する労働者や農民、女性たちがいた。歴史学者の井上寿一氏は、「それまで体制から疎外されていた社会の下層の人びとは、戦争による社会の平準化を、相対的な地位の向上のチャンスとして歓迎した」と指摘する(『日中戦争 前線と銃後』)。

同氏によれば、たとえば1938年1月の厚生省の設置は、労働力・兵力としての国民の力を強化する目的を持ちながら、事実として、部分的ながら、社会保険制度の拡充につながった。あるいは同年4月の農地調整法、翌年12月の小作料統制令といった立法措置は、戦時下食糧増産のために、地主に対する小作農民の地位を相対的に向上させる結果をもたらした。また戦場に赴いた男性の代わりを女性が務めることで、女性の社会進出が目立つようになった。女性たちは、「台所からの解放」を実感することができた。

戦争に自発的に協力したのは、国民の中でも社会的弱者とされる労働者、農民、女性たちだったのである。

だがその後、戦局が一段と悪化すると、下流階層の相対的な地位上昇は実感できなくなった。農民の小作料は減免され、労働者の賃金は上がったものの、皮肉なことに、彼ら自身が支持した戦争に伴うハイパーインフレによって、収入増をはるかに上回る物価上昇に見舞われたからだ。

戦争は軍需産業の隆盛や国家による富の再分配を背景に、一部の国民を潤すことはある。しかし、それが長続きすることはない。多くの人を豊かにする経済の長期にわたる繁栄は、平和によって築かれる。

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