第一次世界大戦は、世界全体に大きな変動をもたらした。その一つがロシアで起こった史上初の社会主義革命である。
ロシアでは大戦の長期化によって食糧や物資が欠乏し、国民は厭戦気分に包まれた。1917年3月、首都ペトログラードで民衆によるデモとストライキが起こり、兵士もこれに加わった。反政府運動は拡大し、各地で労働者・兵士のソビエト(「会議」の意)が結成された。国会では自由主義派の立憲民主党を中心に臨時政府が樹立された。皇帝ニコライ2世は退位し、ここにロマノフ王朝は崩壊した(二月革命)。
二月革命によって、農村では土地を求める農民の蜂起が広がった。ボリシェビキ(のちのソビエト連邦共産党)の指導者レーニンは4月に亡命先のスイスから帰国。臨時政府との対決を主張し、労働者と農民の革命を結合するよう説く。11月、ボリシェビキは武装蜂起して臨時政府を倒し、社会革命党左派の協力を得てソビエト政権を樹立した(十月革命)。これは世界最初の社会主義革命だった。
ソビエト政権(1922年にソビエト社会主義共和国連邦=ソ連)は誕生直後から、白軍(反革命軍)との内戦や、資本主義諸国が起こしたシベリア出兵などの対ソ干渉戦争に直面した。しかしソビエト政権を最も長期にわたり悩ませることになるのは、国内外の軍事的脅威ではなく、市場経済(資本主義)という「内なる敵」だった。
内戦や干渉戦争に直面したソビエト政権は、チェカ(非常委員会)によって反革命運動を取り締まる一方、トロツキーの指導のもと赤軍を組織して対抗した。そして全工業を国有化し、農民からの食糧徴発、労働義務制などの厳しい戦時共産主義を断行して、政治と経済の統制を強化した。
工業国有化は資本家や職員らの強い反発を招き、経済と生産は混乱に陥った。農業の危機は一層深刻だった。シベリアやボルガ川流域、ウクライナなどでは、ソビエト政権による軍隊への動員、馬や穀物の徴発、教会への抑圧などへの反発から、農民たちの抵抗運動がときには十万人規模で起こった。しかもそこに干ばつが重なって、飢餓が発生した。1921年の飢餓では100万人以上が死んだとも言われる。食糧危機は当然都市にも及んだ。
ソビエト政権では、食糧を確保しつつ農民の抵抗を和らげることが急務であるとの主張が強まった。そのための具体的な政策が、レーニンが強く主張し、党内の異論を押し切って1921年に始めた「新経済政策(ロシア語の略語でネップ)」である。
「新経済政策」と呼ばれたものの、その内実は資本主義の一部復活だった。農産物の収穫に対して定率の税を課し、税を納めた残りの収穫物は市場での売買も含めて農民が自由に処分することを認めたもので、収穫が多ければ多いほど豊かになる可能性が農民に与えられた。国営企業にも独立採算制が導入され、市場的な関係が復活した。ネップは人々の生産意欲を刺激し、経済は安定した。世界初の社会主義革命で生まれたソ連を経済危機から救ったのは、皮肉なことに、資本主義の一部復活だった。
ネップの成功は影ももたらした。旧資本家の一部が国営企業の経営専門家として復活し、技術人員も高い賃金で雇われた一方で、独立採算を求められた国営企業が合理化を進めた結果、労働者が解雇されて失業が発生した。農村では富農が経済力を強め、農村共同体内での影響力を強めた。私的な商業活動も認められたことから、都市と農村を結ぶ「かつぎ屋」や「ネップマン」と呼ばれる商人や企業家が多数出現した。彼らは商品流通に少なからぬ役割を果たしたが、不当な利益を得ているとして怨嗟の的ともなった。
ソ連共産党内では、ネップによって生じた経済格差などに労働者や一般党員の不満が強まったこともあり、指導的党員のなかにもネップに批判的な態度を示す者がおり、激しい党内論争を招いていく(松戸清裕『ソ連史』)。
1924年のレーニン死後、スターリンは一国社会主義論を唱え、世界革命論を堅持する左派のトロツキーや、ネップ継続を主張する右派を粛清して独裁的地位を築いた。スターリンは1928年、ネップに代わって社会主義経済の建設をめざす第1次五か年計画に着手し、工業生産を順調に伸ばした。この成果は資本主義国が世界恐慌で苦しんでいたときだけに、世界の注目を集めた。
しかし、一見順調なソ連の計画経済は、その裏側で農村経済の恐るべき破綻を招いていた。五カ年計画では重工業の発展が優先されたため、消費物資の生産が減少してモノ不足になり、国民は不自由な生活を強いられた。さらにスターリンは農業の集団化を強制し、農村を土地・農具・家畜などを共有する集団農場であるコルホーズに再編し、さらにそのモデルとなる大規模な国営農場(ソフホーズ)を設けた。
革命で地主支配から脱し、自分の土地を持つことができたと思っていた農民たちは、集団化に抵抗した。特に激しい抵抗を示したのは比較的豊かな自営農たちだった。スターリンはこうした自営農たちを、社会主義の理想を阻む強欲なブルジョワであり、内なる敵であると名指しして徹底的に弾圧した。富農たちは次々に逮捕され、処刑されるかシベリアの強制収容所に送られた。富農だけでなく、集団化に抵抗する農民たちも容赦なくシベリア送りにされた。
さらに、農業集団化そのものも悲惨な結果を生んだ。どれだけ収穫しても自分の利益にならず、働きがいを失った農民たちは、コルホーズでの農業労働を拒否したり手を抜いたりした。農業生産は落ち込んだ。
しかもソ連は、五カ年計画を成功させるために農産物を都市部に大量に供給させた。農村は集団化によって土地を失ったばかりか、自分達が生産した食料を手に入れることすら困難になった。その結果、1932年から1933年にかけて、多くの地域で飢餓が広がり、穀倉地帯のウクライナやカザフスタンで大量の餓死者が出ることになった。飢餓による死者は数百万人にのぼるといわれる。
ソ連は1933年から第2次五カ年計画を開始したが、この時期にスターリンの個人独裁が確立していく。スターリンは自らの権力を確固たるものにするために、大量の人々を逮捕し、強制収容所に送るか処刑した。大粛清と呼ばれる。大粛清の対象はきわめて恣意的で大規模なものになり、死者数は少なくとも150万人から300万人に及ぶとされる。
もちろん対外的には、恐怖に覆われたソ連国内の実態は情報統制によって隠され、五カ年計画の成功が宣伝されていった。西洋諸国が恐慌に苦しむなか、工業生産高を上昇させるソ連に世界は驚愕し、「ソ連型モデル」として称賛された(北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー』)。
けれども実際には、ソ連経済の内実は疲弊しており、ついには1991年の破綻に至ったことは周知の事実だ。
じつはソ連経済の破綻を早くから予測した経済学者がいた。オーストリア出身のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスである。ミーゼスはロシア革命からまもない1920年に発表した論文で、社会主義経済は実現できないと断言した。社会主義では土地や労働力など生産手段の市場が存在せず、したがって合理的な経済計算の基礎となる価格が存在しないからだ。
発表当時、ミーゼスの主張は多くの反論を巻き起こしたが、結局正しかったことが歴史によって証明された。ソ連の社会主義体制はその誕生当初から、経済の原理に反し、滅びることを運命づけられていたのである。