2024-06-30

ソ連社会主義の運命

第一次世界大戦は、世界全体に大きな変動をもたらした。その一つがロシアで起こった史上初の社会主義革命である。

ソ連史 (ちくま新書)

ロシアでは大戦の長期化によって食糧や物資が欠乏し、国民は厭戦気分に包まれた。1917年3月、首都ペトログラードで民衆によるデモとストライキが起こり、兵士もこれに加わった。反政府運動は拡大し、各地で労働者・兵士のソビエト(「会議」の意)が結成された。国会では自由主義派の立憲民主党を中心に臨時政府が樹立された。皇帝ニコライ2世は退位し、ここにロマノフ王朝は崩壊した(二月革命)。

二月革命によって、農村では土地を求める農民の蜂起が広がった。ボリシェビキ(のちのソビエト連邦共産党)の指導者レーニンは4月に亡命先のスイスから帰国。臨時政府との対決を主張し、労働者と農民の革命を結合するよう説く。11月、ボリシェビキは武装蜂起して臨時政府を倒し、社会革命党左派の協力を得てソビエト政権を樹立した(十月革命)。これは世界最初の社会主義革命だった。

ソビエト政権(1922年にソビエト社会主義共和国連邦=ソ連)は誕生直後から、白軍(反革命軍)との内戦や、資本主義諸国が起こしたシベリア出兵などの対ソ干渉戦争に直面した。しかしソビエト政権を最も長期にわたり悩ませることになるのは、国内外の軍事的脅威ではなく、市場経済(資本主義)という「内なる敵」だった。

内戦や干渉戦争に直面したソビエト政権は、チェカ(非常委員会)によって反革命運動を取り締まる一方、トロツキーの指導のもと赤軍を組織して対抗した。そして全工業を国有化し、農民からの食糧徴発、労働義務制などの厳しい戦時共産主義を断行して、政治と経済の統制を強化した。

工業国有化は資本家や職員らの強い反発を招き、経済と生産は混乱に陥った。農業の危機は一層深刻だった。シベリアやボルガ川流域、ウクライナなどでは、ソビエト政権による軍隊への動員、馬や穀物の徴発、教会への抑圧などへの反発から、農民たちの抵抗運動がときには十万人規模で起こった。しかもそこに干ばつが重なって、飢餓が発生した。1921年の飢餓では100万人以上が死んだとも言われる。食糧危機は当然都市にも及んだ。

ソビエト政権では、食糧を確保しつつ農民の抵抗を和らげることが急務であるとの主張が強まった。そのための具体的な政策が、レーニンが強く主張し、党内の異論を押し切って1921年に始めた「新経済政策(ロシア語の略語でネップ)」である。

「新経済政策」と呼ばれたものの、その内実は資本主義の一部復活だった。農産物の収穫に対して定率の税を課し、税を納めた残りの収穫物は市場での売買も含めて農民が自由に処分することを認めたもので、収穫が多ければ多いほど豊かになる可能性が農民に与えられた。国営企業にも独立採算制が導入され、市場的な関係が復活した。ネップは人々の生産意欲を刺激し、経済は安定した。世界初の社会主義革命で生まれたソ連を経済危機から救ったのは、皮肉なことに、資本主義の一部復活だった。

ネップの成功は影ももたらした。旧資本家の一部が国営企業の経営専門家として復活し、技術人員も高い賃金で雇われた一方で、独立採算を求められた国営企業が合理化を進めた結果、労働者が解雇されて失業が発生した。農村では富農が経済力を強め、農村共同体内での影響力を強めた。私的な商業活動も認められたことから、都市と農村を結ぶ「かつぎ屋」や「ネップマン」と呼ばれる商人や企業家が多数出現した。彼らは商品流通に少なからぬ役割を果たしたが、不当な利益を得ているとして怨嗟の的ともなった。

ソ連共産党内では、ネップによって生じた経済格差などに労働者や一般党員の不満が強まったこともあり、指導的党員のなかにもネップに批判的な態度を示す者がおり、激しい党内論争を招いていく(松戸清裕『ソ連史』)。

1924年のレーニン死後、スターリンは一国社会主義論を唱え、世界革命論を堅持する左派のトロツキーや、ネップ継続を主張する右派を粛清して独裁的地位を築いた。スターリンは1928年、ネップに代わって社会主義経済の建設をめざす第1次五か年計画に着手し、工業生産を順調に伸ばした。この成果は資本主義国が世界恐慌で苦しんでいたときだけに、世界の注目を集めた。

しかし、一見順調なソ連の計画経済は、その裏側で農村経済の恐るべき破綻を招いていた。五カ年計画では重工業の発展が優先されたため、消費物資の生産が減少してモノ不足になり、国民は不自由な生活を強いられた。さらにスターリンは農業の集団化を強制し、農村を土地・農具・家畜などを共有する集団農場であるコルホーズに再編し、さらにそのモデルとなる大規模な国営農場(ソフホーズ)を設けた。

革命で地主支配から脱し、自分の土地を持つことができたと思っていた農民たちは、集団化に抵抗した。特に激しい抵抗を示したのは比較的豊かな自営農たちだった。スターリンはこうした自営農たちを、社会主義の理想を阻む強欲なブルジョワであり、内なる敵であると名指しして徹底的に弾圧した。富農たちは次々に逮捕され、処刑されるかシベリアの強制収容所に送られた。富農だけでなく、集団化に抵抗する農民たちも容赦なくシベリア送りにされた。

さらに、農業集団化そのものも悲惨な結果を生んだ。どれだけ収穫しても自分の利益にならず、働きがいを失った農民たちは、コルホーズでの農業労働を拒否したり手を抜いたりした。農業生産は落ち込んだ。

しかもソ連は、五カ年計画を成功させるために農産物を都市部に大量に供給させた。農村は集団化によって土地を失ったばかりか、自分達が生産した食料を手に入れることすら困難になった。その結果、1932年から1933年にかけて、多くの地域で飢餓が広がり、穀倉地帯のウクライナやカザフスタンで大量の餓死者が出ることになった。飢餓による死者は数百万人にのぼるといわれる。

ソ連は1933年から第2次五カ年計画を開始したが、この時期にスターリンの個人独裁が確立していく。スターリンは自らの権力を確固たるものにするために、大量の人々を逮捕し、強制収容所に送るか処刑した。大粛清と呼ばれる。大粛清の対象はきわめて恣意的で大規模なものになり、死者数は少なくとも150万人から300万人に及ぶとされる。

もちろん対外的には、恐怖に覆われたソ連国内の実態は情報統制によって隠され、五カ年計画の成功が宣伝されていった。西洋諸国が恐慌に苦しむなか、工業生産高を上昇させるソ連に世界は驚愕し、「ソ連型モデル」として称賛された(北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー』)。

けれども実際には、ソ連経済の内実は疲弊しており、ついには1991年の破綻に至ったことは周知の事実だ。

じつはソ連経済の破綻を早くから予測した経済学者がいた。オーストリア出身のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスである。ミーゼスはロシア革命からまもない1920年に発表した論文で、社会主義経済は実現できないと断言した。社会主義では土地や労働力など生産手段の市場が存在せず、したがって合理的な経済計算の基礎となる価格が存在しないからだ。

発表当時、ミーゼスの主張は多くの反論を巻き起こしたが、結局正しかったことが歴史によって証明された。ソ連の社会主義体制はその誕生当初から、経済の原理に反し、滅びることを運命づけられていたのである。

2024-06-23

ミレイ大統領の光と闇

徹底した自由主義者(リバタリアン)を自認するアルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領が就任して半年が経った。日本経済新聞は「ショック療法と銘打つ厳しい緊縮政策によって財政収支の黒字化を達成した。一時的な景気悪化を覚悟のうえで懸案の高インフレを抑え込んでいる」と同大統領の手腕を高く評価する。
筆者自身リバタリアンとして、華々しく登場したミレイ大統領に期待してきたし、今も希望を捨ててはいない。しかし一方で、当初から抱いていた疑問と不信が次第に大きくなっていたのも事実だ。

そう感じていた最近、米リバタリアン系サイトのルー・ロックウェル・ドットコムに、オスカー・グラウという人が力のこもったミレイ批判を立て続けに3本(5月21日同22日6月5日)掲載した。記事はミーゼス研究所のサイトでも一部紹介されている。

グラウ氏は本職は音楽家ながら、オーストリア学派の経済学者ハンス・ヘルマン・ホッペ氏の公式サイトでスペイン語版の編集を任されている。アルゼンチンの公用語であるスペイン語に堪能で、リバタリアンの政治・経済理論にも精通しているようだ。記事執筆にあたり、ホッペ氏やミーゼス研究所のトーマス・ディロレンゾ所長ら学識者の助言を受けたという。

グラウ氏は一連の記事で、ミレイ氏の政策に対してある程度プラスの評価は与えながらも、全般には厳しい批判を展開している。それには説得力があり、筆者のもやもやした気分を晴らしてくれた。ポイントをかいつまんで紹介し、感想を述べよう。

論評の対象となるミレイ氏の政策は大きく二つに分かれる。内政と外交だ。まず内政について、グラフ氏は「良い行いと悪い行いが入り混じっている」と評する。

良い行いは次のとおりだ。一部の補助金支出を削減し、いくつかの政府機関を閉鎖し、公共建設への融資の多くを停止した。経済の規制をある程度緩和し、公共事業の民営化など、さらに規制緩和を進める計画だ。さまざまな価格統制の撤廃は一部の市場で一定の成果を上げたが、アルゼンチン経済は政府による規制が多くカルテル化が進んでいるため、一部補助金の削減と同様に、全体的な恩恵はまだ限られている。ミレイ氏はいくつかの関税を引き下げ、自動車販売店に対する税金を引き下げた。リバタリアンの考えや健全な経済学全般について演説を続けているし、文化的左翼に対しておおむね適切な言葉で反対している。

一方、悪い行いには以下のようなものがある。政府債務の支払いを拒否する代わりに国際通貨基金(IMF)に赴き、前政権から債務を購入した愚かな外国投資家への借金を、国民に支払わせることにした。公約どおり全面的に減税して経済を自力で回復させるのでなく、燃料や外貨購入などに対してさまざまな税金を増やし、高所得者への所得税を復活させる計画さえ立てている。福祉政策を拡大し、その中には妊婦や扶養している子供に対する給付金のような、健全な社会にとって特に有害な政策が含まれる。政府支出を減らすことで財政を均衡させるのではなく、課税を増やすことで均衡させ、勤勉な市民の収支よりも政府の収支を優先させている。

グラウ氏の採点は辛めだが、大胆な政策変更には多くの困難を伴うから、善戦しているといってもいいだろう。しかし外交については、リバタリアンの立場から前向きな評価は難しい。

最も問題なのは、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃を強く支持している点だ。昨年10月7日にパレスチナの武装勢力ハマスがイスラエルを攻撃して約1200人を殺害したことに対し、イスラエル軍はこれまでに女性や子供を含む少なくとも3万5000人を殺害した。イスラエルが建国以来、パレスチナ人住民に行ってきた殺傷行為を無視し、今回の攻撃に限ったとしても、過剰防衛であり、ジェノサイド(大量虐殺)にほかならない。しかしミレイ氏は、イスラエルの行為はすべて「ゲームのルールの範囲内」であり、「ハマスのテロリストが犯した乱行にもかかわらず、イスラエルには何の行き過ぎもない」と話す

ミレイ氏が尊敬するという、米リバタリアン思想家のマレー・ロスバードは、パレスチナ人の抵抗とその土地に対する権利を擁護していた。グラウ氏は、「ロスバードはミレイの言葉を嫌悪し、彼を擁護できない詐欺師とみなすだろう」と書く

ミレイ大統領は米国の介入主義的な軍事政策にも盛んに関わっている。就任から半年もたたないうちに、米国製F16戦闘機を24機購入し、米艦隊と合同海軍演習を実施。北大西洋条約機構(NATO)にパートナー国としての参加を要請した。ミレイ氏はNATO、イスラエルに加え、米政府が支援するウクライナも強く支持している。グラウ氏はミレイ氏の外交政策について「リバタリアンというよりは、むしろネオコン(新保守派)の特徴だ」と断じる

ミスター共和党と呼ばれたロバート・タフト元上院議員ら米国の旧保守派(オールドライト)が軍事では非介入主義を貫き、ロスバードらリバタリアンに高く評価されるのに対し、最近の民主・共和両政権を牛耳るネオコンはアフガニスタン、イラク、リビア、シリアなどで露骨な軍事介入を推し進め、リバタリアンにとっては不倶戴天の敵だ。日本の大手メディアがミレイ氏に好意的な報道をするようになったのは、米国のネオコンに忠実だとわかり、安心したからではないかと勘ぐりたくなる。

グラウ氏はまとめて、ミレイ氏を次のように評価する。経済学者としては主流派をはるかに上回る。「リバタリアン」大統領としては失敗しているが、他の大統領よりはましだ。しかし、ミレイ氏を一部のオーストリア学派経済学者のように「本格的なリバタリアン」と呼んだり、その大統領当選を「ベルリンの壁と共産主義の崩壊に匹敵する、自由にとって歴史的な日」と称えたりするのは「行き過ぎ」である。さらに厳しく、「ミレイをリバタリアンだと呼び続けるのは間違いである。ネオコンをリバタリアンだと偽ることを意味するからだ」とも論評する

ミレイ大統領は内政でそれなりの成果を上げており、リバタリアンではないとまで言い切るのは、筆者にはためらわれる。けれども心情はグラウ氏に共感する。筆者がリバタリアニズムを愛するのは、経済学的に正しいという以上に、戦争という政府の暴力に反対し、平和を尊ぶ思想だからだ。ロスバードはこう問いかけている。「リバタリアンは価格統制や所得税については適切にも憤りをおぼえるのに、大量殺戮という究極の犯罪に対しては肩をすくめるか、あるいは積極的にこれを支持しさえするというのだろうか?」

現状ではミレイ大統領の光の部分に比べ、闇の部分があまりに深い。外交面でも真のリバタリアンになるよう願っている。

2024-06-16

第一次世界大戦の悲劇

「するとたちまち恐ろしい唸り声とともにぴかっと光った。この掩壕(えんごう)は一発の命中弾を食って、あらゆる隙間がばりばりっと音を立てた。〔略〕あらゆる金属性の恐るべき音響を発して、壁は震え、武器も鉄兜も地面も泥も塵も、ことごとく飛散した。硫黄の匂いを含んだもうもうたる烟(けむり)が、遠慮なしに侵入してきた」

西部戦線異状なし (新潮文庫)

ドイツの作家レマルクの小説『西部戦線異状なし』(秦豊吉訳)の一節である。第一次世界大戦に出征したレマルクはその体験をもとにこの作品を執筆した。未曾有の大量殺戮に戦慄する兵士たちの姿を生々しく描き、世界的反響を巻き起こした。

第一次世界大戦は1914年から1918年まで独墺陣営(同盟国)と英仏露陣営(協商国・連合国)との間で戦われた、史上初の世界戦争である。

戦争は長期化し、甚大な被害をもたらす。19世紀のおもな戦争の戦死者数がナポレオン戦争198万人、南北戦争62万人、普仏戦争18万人だったのに対し、第一次世界大戦は855万人にも達した。

死傷者数が膨大な数にのぼった一因は、毒ガス、戦車、軍用飛行機、軽機関銃などの新兵器の投入である。『西部戦線異状なし』で主人公のドイツ人兵士ボイメルは毒ガスについてこう語る。

「僕は野戦病院で、恐ろしい有様を見て知っている。それは毒ガスに犯された兵士が、朝から晩まで絞め殺されるような苦しみをしながら、焼けただれた肺が、少しずつ崩れてゆく有様だ」

戦争が世界規模に拡大した背景には、各地で激化していた列強の植民地を巡る利害対立があった。なかでもバルカン半島におけるオスマン帝国の領土の奪い合いが大戦の思わぬ火種となった。

1914年6月、バルカン半島にあるボスニアの州都サラエボでセルビア人青年が放った銃弾により、オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が殺害された。オーストリアは同盟国ドイツの軍事協力の約束を取り付けてのち、7月にセルビアに宣戦布告し、オーストリア・セルビア戦争が勃発する。

当事者のオーストリアもセルビアも、それらの同盟相手のドイツもロシアも、この戦争はボスニアを巡る局地戦争にすぎず、それがまさか世界大戦と呼ばれるような大戦争に発展するとは、誰も思っていなかった。しかし実際には軍事同盟を介してロシア、ドイツ、フランス、英国が次々と参戦し、バルカンの局地戦争は一カ月の間に全欧州の戦争へと拡大していった(北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー』)。

軍事同盟は平和の維持が目的とされるけれども、第一次世界大戦勃発の経緯に鑑みれば、むしろ戦争を引き起こすリスクもあることを忘れてはならないだろう。

参戦国の多くは開戦後まもなく、兵器、弾薬、その他軍需品の不足に直面し、長期戦を見据えた戦時生産体制に移行する。

ドイツは英国による経済封鎖で海外からの工業原料が途絶する事態に備え、陸軍省に戦時原料局を設置し、大手電機会社AEGの社主ラーテナウにその運営を委託した。最初は金属原料から始まった統制は、やがてほとんどの産業分野に及んだ。ドイツの戦時統制経済は戦後、ソ連の社会主義建設や日本の高度国防国家のモデルとされた。

英国は敵国ドイツ同様、経済に対する政府の介入を加速させる。軍需省を新設し、社会政策推進で国民に人気のあったロイド・ジョージを大臣に任命した。ロイド・ジョージは要所に経済人を登用し、軍需生産のテコ入れを図った。英国の経済介入体制は戦後の福祉国家の原型となる。

フランスではポアンカレ大統領が開戦直後の教書で、国土防衛のための「ユニオン・サクレ(神聖なる団結)」を提唱した。フランス国民は戦争は短期終結するだろうとの予測の下、個人の権利の制約を受け入れ、国家に大きな権限を与えた(板谷敏彦『日本人のための第一次世界大戦史』)。

第一次世界大戦が起こる前、世界経済はおおむね自由主義が主流で、政府が経済に積極的に介入することは少なかった。それが大戦によって大きく変容していった。ある意味で、自由主義以前の重商主義の時代に逆戻りしたとも言えるだろう。

一般民衆の間にも戦争の影響は広く及んだ。参戦国の多くで、それまで反戦平和を唱えていた労働組合や社会主義政党も戦争協力に転じ、挙国一致体制が成立した。また植民地を含めて総力戦体制が構築され、戦闘員と民間人との境界線があいまいになった結果、民間人を巻き込む都市爆撃が行われるようになった。

生産体制の強化とともに参戦国の課題となったのは、戦費の調達である。

戦時財政の規模はどの国でも巨額に上った。ドイツの場合、大戦勃発直前の1913年の政府の税収23億マルクに対し、敗戦時の戦費負担は総額1550億マルクになっていた。連邦制をとるドイツは中央政府の課税能力に限界があり、戦費中の租税充当分はわずか3%にすぎない。不足分は国債・公債発行で調達するしかなかった。英国などの妨害や米国世論の反独傾向から国外での発行は成功せず、ほとんどが国内での発行となった。

一方、英国は早くから増税で対応した。労働者など低所得者に配慮して中・高所得者の所得税率を引き上げ、さらに高額所得者には別途、特別税を課して社会的不公平感の高まりを和らげた。その結果、戦費の26%を税収で賄い、この比率は参戦国中で最も高かった。

フランスは戦争前半は短期信用で、後半になって公債、増税による調達も併用した。ロシアはほぼ全額を英仏の同盟国で、さらに米国でも調達した。

いずれにせよ、租税で支えられるのは戦費の一部にすぎず、大部分はいわば借金で賄った。各国とも最初は短期戦だろうと期待したことと、その後は「勝ったら敵に払わせる」ことを前提にしたからだ。それが、勝つまでは戦争を続けなければならないという決意を固めさせ、戦争を長引かせる要因の一つになった(木村靖二『第一次世界大戦』)。

ドイツの哲学者カントは著書『永遠平和のために』で軍事国債の禁止を唱えた。国債の発行によって戦争の遂行が容易になり、平和実現にとって大きな障害になると考えたからだ。しかし第一次世界大戦で列強の政治指導者たちはカントの警告を無視して戦費を国債に頼り、その結果、甚大な戦禍を引き起こし、人々を苦しめた。

第一次世界大戦が起こるまでは、ある仕組みによって政府の借金に一定の歯止めがかかっていた。金本位制だ。

金本位制では金が本来の通貨とされ、政府通貨は一定の重さの金を裏付けとしなければならない。このため政府は保有する金の量以上に通貨を発行することができなかった。金本位制を維持したままでは、政府通貨を大量に発行し、それによって自ら国債を買い取って戦費を調達することができなかった。

そこで各国は大戦が始まると、相次いで金本位制を停止した。その結果、各国は財政上の歯止めから解放され、国債で多額の戦費を賄い、それが戦争の長期化と被害の拡大につながっていった。もし金本位制が維持されていたら、戦争はもっと早く終わり、人的・物的被害も少なく済んだかもしれない。

『西部戦線異状なし』の主人公ボイメルは「なぜだ、なぜ戦争を止めないんだ」と悲痛に叫び、ある日戦死する。しかし司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と記すだけだった。

国家の利益を巡る対立が一般国民を巻き込み、多数の命を消耗品のように奪った第一次世界大戦の悲劇。それが経済・社会にもたらした負の影響は戦後も続き、やがてもう一つの大戦につながっていく。

2024-06-09

帝国主義を批判した鉄鋼王

米国は南北戦争後の急速な経済発展により、1880年代に世界最大の工業国となった。そして1890年代に開拓対象となる西部辺境(フロンティア)が消滅したこともあり、海外進出の機運が高まっていった。

米国は建国以来、国際政治への介入を控える「孤立主義」の伝統を守ってきた。それが大きく転換し、海外進出に向かうきっかけとなったのは、米西戦争である。1898年、キューバとフィリピンを舞台に米国とスペインの間で戦われた。日本でいえば日清戦争の終結から四年後のことだ。

カーネギー自伝 新版 (中公文庫)

1895年2月、ホセ・マルティによってキューバのスペインからの独立運動が始まると、スペインは苛烈な弾圧を行い、長引く動乱のため島は荒廃した。一方、同じくスペイン領のフィリピンでも独立の機運が高まり、1896年8月に独立革命が勃発、その後一時挫折したものの1898年に入って再燃していた。

米国はキューバに投資と貿易の利害をもち、戦略的関心を抱いてもいた。米国民はみずからの独立戦争を想起して同情の声を上げ、これを米国のイエロー・ジャーナリズムと呼ばれる扇情的な新聞が煽った。映画「市民ケーン」のモデルとして知られるウィリアム・ランドルフ・ハースト、ピューリツァー賞に名を残すジョセフ・ピューリツァーらの経営する新聞はその代表格だ。

1898年2月、ハバナ港に停泊中の米戦艦メイン号が爆発、沈没し、将兵二百六十名が死亡した事件をきっかけに、前年大統領に就任していた共和党のマッキンリーは3月末、スペインに最後通牒を突きつけた。「メイン号を忘れるな」のスローガンが叫ばれる中、米議会はキューバ独立のための武力行使を決定した。

ところが戦争の第一報はフィリピンから届いた。1898年5月1日、米海軍がマニラ湾に侵入し、スペイン艦隊を撃破した。スペイン軍はキューバとフィリピンの双方で反乱軍や米軍と対峙せざるをえず、総崩れとなる。スペインのカリブ艦隊は7月に米軍に撃破された。8月には米軍とエミリオ・アギナルド率いるフィリピンの反乱軍により、マニラが陥落した。

米西戦争の勝利により、米国はスペインからフィリピン、グアム、プエルトリコを奪ったうえ、キューバを独立させて事実上の保護国とした。

しかし、米政府のこの決定に対し、国内では憂慮する声も広がった。

米国のフィリピン領有を正式に決めるパリ講和の最中、米国内では反対運動が盛り上がり、反対派は1898年10月、反帝国主義連盟を結成した。連盟に名を連ねたのは、作家マーク・トウェイン、共和党上院議員ジョージ・ホア、民主党大統領候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアン、哲学者ウィリアム・ジェイムズらである。

フィリピン併合への反対論の核心は、キューバ解放のための戦争がアメリカ帝国の建設を導いてしまったことにあり、独立宣言により誕生した共和国アメリカが異民族を支配する帝国となることは、アメリカ民主主義の堕落だと主張した。

連盟メンバーの一人であるエール大学の社会学者ウィリアム・グラハム・サムナーは1899年、「スペインによるアメリカの征服」と題する講演で、「アメリカは、膨張主義ないし帝国主義の道を歩むことによって、アメリカがこれまで象徴してきたものを失い、スペインが象徴してきたもの——すなわち帝国主義——を採用することになるのであるから、戦争ではスペインに勝っても、観念および政策の分野ではスペインに屈したことになる」と米政府を批判した。

反帝国主義連盟メンバーのうち異彩を放ったのは、鉄鋼王として知られるアンドリュー・カーネギーである。スコットランドからの移民で、無一文から巨万の富を築いた。

カーネギーは、キューバ独立を支援する米国の戦争には賛成した。この戦争は純粋に人道的理由に基づき、領土拡大が目的ではないというマッキンリー大統領の言葉を信じたからだ。

ところが戦争の結果、米国がフィリピンを併合する見通しが強まった。カーネギーはこれに怒り、フィリピンを米支配下に置くあらゆる条約の締結に反対しようと決意する。そして公然と反対論を唱え、反帝国主義運動に資金を提供するようになった。実現はしなかったものの、フィリピンの人々を米国の支配から自由にするため、資金力に物を言わせてフィリピン諸島を買い取ることまで試みた。

米西戦争が終結した1898年夏には、併合反対論は戦勝への熱狂にかき消されがちだった。しかし秋になると、反帝国主義運動が米国内に広がり、全国組織の連盟へと発展していく。カーネギーは雑誌への寄稿で、次のように力強く訴えた。
米国がフィリピンの独立への戦いを弾圧する役目を果たすなど、できるだろうか。もちろんできない。どんな顔をして、フィリピンの学校に米国の独立宣言を掲げつつ、彼らに独立を認めないなどということができるだろう。フィリピンの人々の心は、リンカーンの奴隷解放宣言を読んだとき、どう反応するだろう。私たちは独立を実践しつつ、従属を説くというのか。書物では反乱を教えつつ、武力で鎮圧するというのか。反逆の種をまきつつ、忠誠という収穫を期待するというのか。
カーネギーはこう続けた。「米国は早くもその使命に飽き飽きして捨て去り、勝利の独裁、つまり外国人による支配を打ち立てるという不可能な任務に乗り出そうというのか。そして自治という天賦の権利を主張してきた数百万のフィリピン人が、独立を勝ち取ったことを最大の誇りとする米国人の最初の犠牲者にならなければならないのか」

カーネギーのこの議論は、英国の植民地から独立して誕生した由来を持つ米国自身が、他国をその意思に反して植民地にする矛盾を鋭く衝いている。

カーネギーは新聞、国会議員、自分と同じ資本家らにも手紙で併合反対を訴えた。マッキンリー大統領にも何度も手紙を書いたが、やがて直接話す機会が訪れた。

米西戦争の終結後、マッキンリー大統領は西部を遊説し、至る所で米国の勝利について演説し、拍手で迎えられた。そしてフィリピンから撤退するのは大衆の意思に反するという印象を受けて首都ワシントンに帰り、それまでの撤退方針を撤回した。

カーネギーはある閣僚から、大統領を考え直させるよう頼まれ、ワシントンへ行き、大統領に会った。しかし、大統領は頑としてきかなかった。「撤退するなら、国内で革命が起きる」という。それでとうとう閣僚らも、これは一時の駐留であって、将来何かの口実をつくって撤退するのを条件にして、いちおう了承した。

カーネギーら反帝国主義連盟による併合反対論は、米国が「白人の責務」として、未開で自治能力を欠くフィリピンを民主化するという主張にも押し切られ、1898年12月、米国のフィリピン領有が正式に決まった。

カーネギーは自伝でこう回想している。「ここに、アメリカ合衆国ははじめて、重大な国際的な過ちを犯したのである。この誤りが、結局、この国を国際的な軍国主義の渦中に投じ、またそれが強力な海軍の建設というところに追い込んだのである」

フィリピンでは、米国による領有の決定と同時に、アギナルド率いるフィリピン独立軍との激しい戦闘が開始された(米比戦争)。独立運動は1901年に鎮圧されるが、それまでに米軍の残虐な仕打ちで20万人以上のフィリピン人が死亡した。カーネギーの恐れたとおり、米国が独立を阻む弾圧者に変貌したのである。

資本家というと、帝国主義的な対外膨張を好むイメージがあるかもしれない。たしかにフィリピン併合当時、通商拡大による経済効果を期待し、賛同した資本家たちもいた。だが一方で、カーネギーのように強く反対した人もいた。

米国はその後、アジア進出を加速させ、太平洋戦争やベトナム戦争につながっていく。戦勝の熱狂の中、帝国主義を批判したカーネギーの見識と勇気は、末永く称えられる価値がある。

<参考文献>
  • 貴堂嘉之『南北戦争の時代 19世紀』岩波新書、二〇一九年
  • アンドリュー・カーネギー(坂西志保訳)『カーネギー自伝』(新版)中公文庫、二〇二一年
  • Stephen Kinzer, The True Flag: Theodore Roosevelt, Mark Twain, and the Birth of American Empire, Henry Holt and Co., 2017

2024-06-02

泥棒貴族という英雄たち

南北戦争後、1870年代から90年頃までの米国では経済が急速に発展した。日本では明治時代前半にあたるこの時期は、「金ぴか時代」と呼ばれる。この名称は十九世紀の米文学を代表するマーク・トウェインらの小説の題名からきており、外見だけは華やかだが、金儲けに人々が奔走し、政財界に腐敗が蔓延した時代との批判が込められている。

The Myth of the Robber Barons: A New Look at the Rise of Big Business in America (English Edition)

金ぴか時代に拝金主義や政財界の腐敗という影の部分があったのは事実だ。けれども、それがすべてであったわけではない。理想の追求や勤勉の精神、慈善の拡大といった輝かしい側面もあった。

金ぴか時代のこの二面性を理解するうえでカギとなるのは、「ロバー・バロン(泥棒貴族)」と呼ばれる人々だ。もともとは中世英国で領内を通行する旅人から通行料を取る悪質な貴族のことだが、それにならって、情け容赦なく、際限なく利益を追求する資本家・事業家を指してこう呼んだ。

金ぴか時代には、泥棒貴族と呼ばれる資本家が輩出した。たしかにそのうち一部は、政治権力と癒着して不当な利益をむさぼった。しかし一方で、フェアな市場競争を通じ正当に富を築いた事業家も少なくなかった。泥棒貴族の真の姿を探ってみよう。

南北戦争後の米国では、大陸横断鉄道をはじめ鉄道網が発達した。その立役者となったのは鉄道資本家だ。

政府による資金支援がなければ大規模な鉄道建設は無理だと信じている人は少なくない。たしかに一部の鉄道資本家は政府とのコネを利用して支援を引き出した。たとえばセントラル・パシフィック鉄道の創業者リーランド・スタンフォードはカリフォルニア州知事、同州選出の連邦上院議員を歴任した政治家でもあり、そのコネを利用して鉄道の競争を妨げる法律を通し、独占による利益を享受した。

彼などはまさしく、権力を利用して不当な利益をあげた泥棒貴族の名にふさわしい人物だろう。しかしそのせいで、まっとうな商売で富を築いた起業家まで同類に扱われ、非難されるのは残念なことだ。

鉄道業界でそうしたまっとうな起業家の代表は、グレート・ノーザン鉄道の創業者ジェームズ・ヒルだ。ヒルは十四歳で父を亡くし、母を支えるため学校をやめて働き始める。食料雑貨品店、農業、海運、羽毛販売などで元手を蓄えた後、ミネソタ州の倒産した鉄道会社を仲間とともに買い取った。

ヒルはただちに鉄道業の才能を発揮する。業務の無駄を省き、社員が交代で必ず休憩時間を取れるようにした。コスト削減の成果を農業、鉱業、林業関係者など利用客とも分かち合い、運賃を引き下げた。自社と顧客は共存共栄の関係にあると知っていたからだ。水害や不況に苦しむ農家のために穀物の種子を無料で提供し、町に土地を寄付して公園、学校、教会が作れるようにもした。

ヒルは、同業者で結託して運賃を高めに維持しようとするカルテルの誘いを拒んだ。むしろ進んで運賃を引き下げ、カルテルを崩そうとした。

1886年から1893年にかけ、大陸を横断するグレート・ノーザン鉄道を建設した際には、補助金頼みの鉄道とは違い、景色よりも耐久性や効率性を重視した。少しでも距離を短く、勾配をなだらかに、カーブを少なくするため、より良い路線の調査・開発に努めた。その結果、グレート・ノーザン鉄道は世界の主要鉄道のうち、最も便利で儲かる鉄道となった。

これに対し、健全な鉄道の建設よりも政府からの補助金獲得に力を入れた鉄道会社は、経営が不効率で、次々と倒産した。実のところ、最後まで倒産しなかった大陸横断鉄道は、ヒルのグレート・ノーザン鉄道だけだった。

まっとうな起業家でありながら、泥棒貴族とおとしめられる資本家の代表といえば、石油王ジョン・ロックフェラーだろう。

鉄道王ヒルと同じく、ロックフェラーも恵まれない境遇から身を起こした。行商人の子として生まれ、十六歳で高校卒業後、見習いの経理事務員となる。キリスト教プロテスタントの一派であるバプテスト教会の敬虔な信者で、勤勉と貯蓄を重んじた。いくつかの営業職を経て、二十三歳のときには十分な資金を蓄え、オハイオ州クリーブランドの石油精製会社に出資した。

ロックフェラーはやはりヒルと同様、事業のあらゆる細部に気を配り、コストの削減、製品の改善、品ぞろえの拡大に努めた。ときには肉体労働者に交わってまで、事業をとことん理解しようとした。他の経営幹部もこれにならい、会社は急成長する。のちのスタンダード石油である。

石油製造に伴う多くの無駄をなくす方法も考案した。社内の化学者に命じ、潤滑油、ガソリン、パラフィンワックス、ワセリン、ペンキ、ニス、その他三百種に及ぶ副産物の生産方法を考え出した。これにより生産の無駄をなくし、採算性を高めた。稼いだ利益は精製施設の改善に惜しみなく投じた。操業の安全性に強い自信を持っていたため、保険にすら入らなかったという。

スタンダード石油は急速に市場シェアを伸ばしていく。1870年の4%から1874年には25%に、1880年には約85%にまでシェアを高めた。その原動力になったのは低価格だ。精製油の値段は1869年の1ガロン30セント超から1874年には10セントに、1885年には8セントに下がった。安くなった灯油は、家庭で明かりの燃料として使われるようになる。これは米国民の生活に革命を起こす。当時、日が暮れてから働いたり物を読んだりする習慣はまだ目新しかった。

ロックフェラーは顧客に対してだけでなく、従業員に対しても非常に寛大で、競合他社より大幅に高い給与を支払った。おかげでストライキや労働争議に悩まされることはめったになかった。

ロックフェラーにまともな商売で太刀打ちできない同業者らは、そんなときの常套手段に訴える。政府にロビー活動で働きかけ、法律や規制で相手を縛ることだ。1906年、米連邦政府はスタンダード石油に対し反トラスト(独占禁止)規制に基づく訴訟を起こす。

そもそも独禁規制の目的は、消費者の保護にあるとされる。そうだとすれば、米政府がスタンダード石油を訴えたのはおかしなことだ。前述のように、同社は効率経営によって石油の値段を数十年にわたり大きく引き下げ、消費者に大きな恩恵を及ぼすとともに、競合他社に値下げを促してきたからだ。

市場シェアからも、スタンダード石油を独占とみなすのは疑問だった。1890年には88%と高水準にあったものの、1911年には64%に低下していた。競合他社は数百社もあった。それにもかかわらず、米連邦最高裁は同年、同社に対し独禁法違反の判決を下した。スタンダード石油は三十四の新会社に分割される。

その結果、スタンダード石油の経営は効率が低下し、不効率な同業他社が得をすることになった。損をしたのは消費者である。

スタンダード石油が独禁法違反で摘発された背景には、マスコミによる攻撃もあった。急先鋒だったのは、当時人気雑誌だった「マクルアーズ・マガジン」の編集長アイダ・ターベルだ。ターベルはロックフェラーとの競争に敗れて破産した石油業者の娘で、ロックフェラーはいわば親の仇だった。ターベルのロックフェラー批判は経済学的には的外れだったが、ロックフェラーを悪玉に仕立て上げ、世論を動かすうえで大きな力があった。

ロックフェラーは一般に信じられている姿とは違い、控えめで物静かな人物だった。新聞や雑誌から攻撃を受けると、「夜も寝られない」と不満を述べ、「これほどの心痛で苦しまなければならないのなら、自分が手に入れたすべての富など意味がない」と漏らすこともあったという。

信仰心の厚いロックフェラーは若い頃から教会などの慈善事業に寄付をしてきたが、富を築いてからはそれを本格化した。シカゴ大学はロックフェラーによる寄付金をもとに今日では名実ともに世界的な大学となった。医療研究、文化施設にも多くの寄付を行った。

金ぴか時代の泥棒貴族には、政治の力で金儲けをし消費者の利益を損なう、まさに泥棒の名にふさわしい連中もたしかにいた。しかしそれ以外に、ビジネスの王道を通じ社会を豊かにした英雄的な起業家たちもいた。これら二つの集団を混同してはいけない。それは縁故主義と資本主義の違いでもある。

<参考文献>
  • 飯塚英一『若き日のアメリカの肖像: トウェイン、カーネギー、エジソンの生きた時代』彩流社
  • 松尾弌之『列伝アメリカ史』大修館書店
  • Thomas J. Dilorenzo, How Capitalism Saved America: The Untold History of Our Country, from the Pilgrims to the Present, Crown Forum
  • Burton W. Folsom, The Myth of the Robber Barons, Young Amer Foundation