2020-12-27

日本中世、政府が通貨を発行しなくても困らなかった理由〜民間で製造、中国から輸入も

現代では、政府がそれぞれ独自の通貨を発行する「一国一通貨制度」が常識だと思われている。そうでなければ、お金の量をコントロールできず、経済は成長できないとも信じられている。


しかし、それは現代人の思い込みにすぎない。歴史をさかのぼれば、政府が自国の通貨を発行しないケースは珍しくなかった。

たとえば、18世紀にオーストリア政府が発行した、女帝マリア・テレジアの肖像を刻んだ銀貨は、本国ではとうに使われなくなった20世紀に至るまで、遠く離れたアフリカ・西アジアの特定地域で流通を続けた。この地域はオーストリアの植民地でも勢力範囲でもなく、むしろ英国やフランスの植民地ないしはその勢力下にあった(黒田明伸『貨幣システムの世界史』)。

さらに身近なところにも実例がある。日本の中世だ。

院政期・平氏政権期の12世紀半ばから戦国期の16世紀にかけての四百年近くにわたって、日本国内では渡来銭(宋や明が発行した銭貨)やそれを模倣した私鋳銭(中国や日本国内で宋・明銭を模して作られた貨幣)が、貨幣としての役割を担った。

古代の日本政府(朝廷)は、日本最古の流通貨幣とされる和同開珎以降、10世紀半ばまで皇朝十二銭と呼ばれる貨幣を鋳造し流通させたが、その後、鋳造された貨幣の利用は途絶えていた。それが再開するのは、中国貨幣の本格的な流入が始まる12世紀半ばである。

この時期に中国銭が流入した理由として、かつては、宋との間の交易で決済手段として宋銭が用いられたためと説明されることが多かった。しかし、同時期の宋との貿易は金や銀の地金で決済されていたようだ。また、中国大陸との民間貿易は894年の遣唐使中止以降も続いており、急に中国銭の国内使用が拡大した理由としては十分でない。

鎌倉大仏の原材料は宋銭?


経済学者の飯田泰之氏によると、現在ではむしろ貨幣以外での用途で日本に持ち込まれたと考える研究が注目されている(『日本史に学ぶマネーの論理』)。

たとえば、貿易船のバラスト(船を安定させるための重り)として持ち込まれたという説がある。日宋貿易における輸出品である金や硫黄に対し、おもな輸入品である陶磁器の比重は軽い。大陸からの帰途に船に陶磁器を満載しただけでは軽すぎて船が安定しないため、底荷として宋銭が用いられたという。

また、銭としてではなく、銅製品の原材料として輸入されたという説もある。鎌倉大仏の原材料は宋銭であると言われる。宋銭と鎌倉大仏はともに銅70%、鉛20%、スズ10%ほどの組成となっている。同者の類似は偶然とは考えにくい。

同時期の日本国内では、銅地金が金・銀やその他の商品に対して非常に高価になっていたとする指摘もある。その原因としては、国内銅山の枯渇や、仏教信仰の広がりによって仏像・仏具原料としての銅需要が増大したことなどが考えられるという。

船底に積む重りが必要だとしても、まったく無価値な物よりは、それ自体が日本国内で価値を持つ物を用いたほうが効率的だ。

現代の経済では、通貨が流通するためには、権力による強制や政府の負債としての性格を持つことが必要といわれる。しかし、中世日本の場合、初期の渡来銭は一定の重量の銅の持つ価値が裏付けになっていたと考えられる。そうだとすれば「権力による強制や政府負債としての役割なしに流通したことは不思議ではない」(飯田氏)。

これは日本だけの現象ではなかった。当時、中国銭貨やそれを模した貨幣の流通は、西日本から中国沿岸部を経て東南アジアへ至るシナ海を囲む、中華帝国の周辺社会に浸透していた。歴史学者の黒田明伸氏は、行政権力から乖離した、この緩い集合体を「環シナ海銭貨共同体」と名づける。

室町時代には、日中政府間の貿易である勘合貿易を通じ、銭が輸入された。しかし、輸入全体に占める量はさほど大きくなかった。むしろ中心は密貿易だったとみられる。

民間が貨幣を自律的に作り出す


日本国内で利用された銭は、中国からの輸入品だけではなく、民間で作られたものもあった。すでに触れたように、これらは中国の銭の模造であり、私鋳銭と呼ばれる。

民間が銭を模造したというと、通貨偽造だと眉をひそめる向きもあるだろう。けれども、これも現代人の感覚でしかない。歴史学者の高木久史氏はこう指摘する。「歴史をみると、政府やそれに準じる機関が貨幣を供給しないために民間が自律的につくりだす現象がしばしばある」(『撰銭とビタ一文の戦国史』)

15世紀以来、好都合にも日本で銅の産出が増え、銭の生産を促した。15世紀末から16世紀にかけて、室町幕府や大名など地方政府が定めた法は、「日本せに(銭)」「地銭」など日本産であることを意味する銭の名を記している。

室町幕府は銭を輸入したが、結果的に、自らは発行しなかった。その理由として有力な説は「必要がなかったから」というものだ。封建制度は臣下に地方支配を任せるので分権的であり、中央政府の行政費は相対的に小さい。国防も、地方に領地を持つ武士に実質的に委ねていた。

室町幕府自身の財政を補填するにしても、自ら銭を発行するのと、銅などを輸出して銭を輸入するのとであれば、後者の方が費用的に有利だったようだ。「だから、銭をつくる動機が働かなかった」と高木氏は推測する。

政府の通貨発行、再考のとき


中世の日本では、政府の統制に関係なく、人々がお金に関する秩序を自律的に作り上げた。それによって経済に支障が生じることもなかった。

前出の飯田氏によると、室町期の総生産(GDP)成長率は年平均0.33%、さらに戦国期に至っては0.48%と江戸期に匹敵する成長を遂げている。前近代社会に限定しての話ではあるが、これは他国と比較しても「明確な高度成長」である。

オーストリア出身の経済学者ハイエクは、政府に貨幣発行を独占させず、民間で自由に発行し、競争させようと唱えた。政府が貨幣を発行せず、輸入銭や私鋳銭が流通した中世日本の歴史は、ハイエクの提案が決して現実離れしたものではないことを示している。

現代の先進国は、政府が中央銀行を通じて大量の通貨を独占的に発行し、みずからの負債を事実上引き受けてきたことで、債務膨張と財政危機を招いている。現代人が常識だと信じている政府の通貨発行を、歴史に照らして再考してみるべきだろう。

<参考文献>
黒田明伸『貨幣システムの世界史』岩波現代文庫
飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』PHP研究所
高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(中世から近世へ)平凡社

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