2025-01-26

ミレイ氏は債務支払いを拒絶せよ

オスカー・グラウ(音楽家)
2025年1月20日

ハビエル・ミレイがアルゼンチン大統領に就任した2023年12月、アルゼンチンの公的債務は約3700億米ドルで、アルゼンチンの国内総生産(GDP)のほぼ60%を占めていた。この債務は、公的部門、民間部門、二国間組織、多国間組織(国際通貨基金=IMFもそのひとつ)に分かれる。実際、21の協定の歴史を持つアルゼンチンは、IMF最大の債務国である。そして、ミレイ政権がいくらかの融資を受けた最後のIMFプログラムは、2022年に始まった。


公的債務

融資取引が行われるとき、債権者は、一定期間内に利息をつけて返済するという約束と引き換えに、債務者に金額を振り込む。しかし、債務者が取引を完了せず、期限内に返済しなかった場合、債務者は債務不履行となり、債権者は元本と利息を回収するために契約上の救済手段を用いることができる。しかし、政府が借金をする場合、政府当局者は自らの資金を担保にするわけでも、自らの名誉をかけて返済を約束するわけでもない。政府は債権者からお金を受け取り、そのお金は納税者の懐から返済されることを両者は知っている。

したがって、公的な債権者は、後で税金の分け前を受け取るために、今すぐお金を渡すことをいとわない。他人の財産について契約を結ぶことは、両当事者が財産権の侵害に加担することになる。これは正当な契約ではない。そして、契約の当事者でない者が果たすべき義務を伴う契約は無効であり、そのような 「債務者」に対して強制することはできないというのが、民法とローマ契約法の共通の原則である。したがって、私有財産と契約の枠組みを公的信用に適用することはできない。しかし、この問題で私有財産と正義が勝利するためには、人々は単純に私法の原則を守り、公的債務に対してもそれを守るよう要求すべきである。

それにもかかわらず、政府は資金を調達するために金融市場を利用し、債券を発行する。政府が自国民から金をむしり取る可能性は事実上無限にあるため、これらの証券の買い手にとってリスクは通常非常に低く、政府に金を貸し、利子から利益を得てリターンを得る個人にとって、国債は安全な投資形態となっている。さらに、政府が支配する中央銀行は、同じ政府から国債を購入し、公的債務を直接マネタイズ(財政ファイナンス)することもできる。したがって、通常、国債市場で流動性が低下するという問題は起こらない。それでも、国債はリスクがないわけではない。政府がその債務を拒絶することもあれば、政権が変われば、借金の存在を証明する文書の尊重を拒否することもある。それはともかく、すべての国債の満期のための現金は、税金かインフレからしか得られない。結局、国債市場には不正しかないのだ。

矛盾と混乱した思考

ミレイが長年にわたって問題視してきたように、公的債務の問題は、将来の黒字、つまり将来の税金で、将来の世代を犠牲にして返済しなければならないことであり、それは不道徳であり、将来の世代に対する詐欺であると彼は考えた。しかし、大統領選の月(2023年10月)、ペソ建ての債務不履行の可能性について質問されたミレイは、IMFとの話し合いと、「契約と財産権」が尊重されることを保証し、債務を「尊重する」と約束したことに言及した。それなのに、2024年6月、ミレイは、債務を負うことは 「絶対に不道徳な対処法 」だと言って、公的債務に再び反対を表明した。

第一に、最低限、現世代はすでに様々な政府債務の年利を日常的に支払っている。第二に、ミレイは、公的債務の契約は不道徳だが、返済は契約と財産権を尊重することだから、不道徳ではないと主張しているように見える。しかし、これは矛盾している。すなわち、確かに、合法的な融資取引は当事者が自発的に契約条件に同意することで成立するのだから、返済とは、まさに融資契約において財産権を尊重することで始まった取引の完了にすぎない。しかし、公的な融資契約においては、財産権は尊重されず、したがって公正な契約は成立しない。したがって、公的債務の履行を道徳的義務と考えることは、その契約を不道徳なものと考えることと衝突する。

債務と債務負担

ミレイの債務に対する道徳的抵抗が本物かどうかは別として、アルゼンチンは2024年7月に米州開発銀行(IDB)から融資の承認を受け、2024年10月にも融資が確定した。ミレイ政権下の財政黒字にもかかわらず、対外債務は2024年第3四半期までに50億ドル減少したものの、総公的債務は2024年6月までに720億ドル増加していた。この月、ミレイはアルゼンチンが近代史上最大の債務不履行国になったと振り返ったが、それを変えようとしていると指摘した。そして実際、ミレイ政権はそれを変えているだけでなく、納税者の​​犠牲のもとで少数の利益のために金融市場を支え、資本と外貨の義務を含めて、アルゼンチン国民が長年拒否してきた通貨の相対的な再評価に資金提供するよう納税者に強いている。

実際、アルゼンチンでは慢性的なインフレと社会危機が何十年も続いてきたため、国民は貯蓄や計算にはドルを好むようになっていた。そのため、2023年末には、国内金融システム外に約2780億ドルが存在するようになっていた。

確かに、公的債務総額の増加は、中央銀行の債務の大半が財務省に移管され、中央銀行が商業銀行への債務返済のために新たにペソを大量に印刷する必要がなくなったことで、かなりの程度説明できる。また、両政府機関の債務を考慮した場合、2024年10月とミレイが着任する前月の2023年11月を比較すると、債務総額は190億ドル減少した。しかし、それでも財政黒字で返済される見込みである財務省の債務負担は増加している。一方、ミレイ政権の財政均衡のやり方は、何よりもまず債務債務の利子と元本を支払う能力を確保する点に重きを置いている。

少し前にミレイは、2024年はアルゼンチン史上初めてデフォルト(債務不履行)を伴わない財政黒字の年になると強調し、最後に財政収支がプラスになったのが2014年だったことを思い起こさせ、これは債務の満期金を支払わないことで達成されたと強調した。それなのに、アルゼンチンがこれほど頻繁に危機と社会不安に見舞われているのは、デフォルトのせいではなく、そもそも政治指導者が借り入れを求めるようになった政策のためであり、経済と納税者をさらに苦しめるのは債務と返済なのである。

ミレイと支払い拒絶

ミレイが長年にわたって政府に反対し、経済学者でリバタリアンであるマレー・ロスバードの言葉を引用してわめき散らしてきたことを考えれば、ミレイは大統領選中、公的債務に関するロスバードの教えを適用し、広め、少なくとも何らかの意味のある政府債務の拒絶を提案したと考えるのが自然だろう。それなのに、ミレイの公約である債務の支払いと銀行システム内のペソの救済(彼は「市場救済」と呼んだ)は、彼が無政府資本主義者として憎んでいるはずの政府が発行した債務から利益を得た、公的債権者の支援を含んでいた。加えて、公的債務の外国人および民間所有が、信用低下と過去のデフォルトによってすでに抑制されていたとすれば、ミレイの公約がアルゼンチンの納税者のためにならないことは明らかだろう。

2025-01-19

ミレイ氏のインフレ政策

サイファディーン・アモウズ(エコノミスト)
2025年1月10日

アルゼンチン経済の奇跡に興奮する人々は、あらゆる政府統計に基づいてそのように考えているが、そこから除かれている最も重要な統計がある。マネーサプライ(通貨供給量)の測定と公的債務の増加だ。

自由市場派で(リバタリアンの経済学者)マレー・ロスバードの信奉者とされる(ハビエル・ミレイ)新大統領の下、2024年のアルゼンチンのマネーサプライは、以下の驚くべき割合で増加した。

M0:209%
M1:133%
M2:93%
M3:123%

大局でとらえるために、これらの数字が、アルゼンチンが世界最悪の機能不全に陥った不換通貨の国としてその名を轟かせた、以前の数年をはるかに上回っていることに注目してほしい。

2020〜23年の4年間、アルゼンチンのマネーサプライが示した年平均増加率は以下のようだった。

M0:50%
M1:77%
M2:90%
M3:86%

ミレイ大統領領の就任後6カ月で、公的債務は3700億ドルから4420億ドルへと、驚異的な19.4%の増加となった。6カ月で720億ドルの借金をすれば、どんな経済統計も良く見えるが、もちろん問題は長期の影響である。お金を印刷して借り入れをすれば、短期の成長、貧困、失業、インフレの数値を良く見せることができる。こうして、目先の利益を追求する代償を将来に転嫁し、法外な金利を支払うことになる。事態がこれ以上悪くなることはないだろうと考えていた人々は、考え直す必要があるかもしれない。

ミレイ氏が選挙運動中、中央銀行の廃止を公約に掲げ、それは譲れないとまで述べていたことを思い出してほしい。それなのに就任するとすぐに、そのような話はすべて無視され、中央銀行を閉鎖することは政治的に非常に不人気であるという手の込んだ話に置き換えられた。この点において、ミレイ氏は政府がインフレを正当化する際に用いる常套手段である、国家主義の巧みな言い回しを余すことなく取り入れている。すなわち、インフレを止めることによる短期の痛みが非常に大きいので、インフレ路線を継続し、長期の影響を無視するほうがいいというのである。実際にはアルゼンチン中央銀行は破綻しており、この現実を早く認識すればするほど、克服も早くなる。中央銀行を救おうとしても、債務を積み上げることでしかできず、それは将来の問題をさらに悪化させる。この点において、ミレイ氏は将来を犠牲にして目先の救済を求める、これまでのすべての前任者たちと何ら変わりはない。

ミレイ氏はまた、公的債務の不履行(デフォルト)も拒否している。これは国民を、前任大統領たちの乱費による永遠の債務奴隷状態から解放する、ロスバード流の解決策となっただろう。対外債務の不履行と中央銀行の閉鎖は、数カ月の苦しい調整を余儀なくさせるだろうが、その後アルゼンチン経済は、政府がインフレを引き起こしたり、国民に負債を負わせたりする可能性もなく、堅実な基盤の上に回復するだろう。そのような経済では、おそらく外貨とビットコインが支配的になるだろう。そして政府は必然的に、通貨を印刷できないという事実によって制限されることになる。

ミレイ氏は中央銀行を閉鎖せず、マネー増発を容認することで、アルゼンチンの将来に通貨危機の種をまいている。デフォルトを宣言せず、前政権で国に災厄をもたらしたのと同じ銀行家たちを雇うことで、国際通貨基金(IMF)からの新たな救済を熱望しているように見える。それはアルゼンチン国民を世代を超えた負債の奴隷にし、さらなる財政危機を将来にわたって背負わせることになるだろう。驚くことではないが、ミレイ氏は大幅な増税をしようとしており、オーストリア学派経済学に対するその理解は、テレビで陳腐な決まり文句を繰り返す以上のものはないことを示している。政府の借金を増やすために増税することは、国際銀行カルテルとIMFの犯罪者たちを利する、アルゼンチン国民に対する犯罪である。これはIMFのケインズ主義者たちが推し進める専制的な処方箋であり、真の経済学者が支持するものとはまったく関係がない。

ミレイ氏が財政赤字を削減したことは大々的に取り上げられたが、これはそれほど重要なことではない。アルゼンチンの問題は、財政赤字が大きかったことではない。赤字はたいてい、国内総生産(GDP)の4%以下とかなり低く抑えられていた。これは大きなインフレや財政問題のないヨーロッパ諸国と同じ範囲である。問題は常にマネーサプライの増加と公的債務にあり、ミレイ氏の下で、この両方が前例のないほど加速した。

ミレイ氏はさらに追い打ちをかけるように、アルゼンチンに残されたわずかな金(ゴールド)を、いくばくかの収益を求めてロンドンに送った(訳注・借り入れの担保にしたとみられる)。カウンターパーティーリスク(取引先の破綻リスク)のない、政治的に中立な通貨資産(金)を質入れして、小銭を稼ごうとする姿勢は、信頼感を呼び起こすものではない。歴史家のニール・ファーガソン氏は著書『マネーの進化史』の中で、アルゼンチンの経済問題がどのようにして始まったかを詳しく説明している。1946年に当時のペロン大統領が中央銀行を訪問し、そこに大量の金塊が眠っていることに驚いたのがきっかけだった。当時、アルゼンチンの金準備高は1000トンを超えており、ペロンとその後継者は、本来は国民の通貨を裏付けるべき金準備を切り崩して、支出を賄うという誘惑に抵抗することができなかった。その結果、過去80年にわたる惨事が起こったのである。何十億パーセントものインフレと数え切れないほどの債務不履行を経て、アルゼンチンの金準備高は現在では61トンにすぎない。ミレイ氏は最後の準備資産を質入れし、目先の利益を手に入れ、借金返済を続けてIMFからの新たな融資を受けられるようにしたことで、ペロンのインフレ政策の遺産を論理的に完結させた。アルゼンチンは今、自国の資金を持たず、政治的・経済的リスクをはらんだ外国銀行からの負債だけが膨れ上がっている。このペロン主義者(=ミレイ氏)が自らの行動を正当化するためにロスバードを引き合いに出すたびに、ロスバードは墓の中で顔をしかめていることだろう。

このデータは驚くべきものであり、誇張とは正反対のものである。しかし、このデータがなぜ間違っているのかを証明できる人がいるのでない限り、ミレイ氏は自由主義や自由市場の美辞麗句を声高に主張するにもかかわらず、長期のインフレと負債によって短期の人気を得ようとする、典型的なラテンアメリカのポピュリスト的インフレ主義者であり、ペロン以降のアルゼンチンの指導者たちと本質的には何ら変わらない。ミレイ氏の自由市場に関する大げさな言い回しが達成したとみられることは、アルゼンチンの貧しい人々をだまして、ビットコインのような有効な代替策を見つける代わりに、機能しなくなった中央銀行を再び信頼させることだけだ。ミレイ氏の反社会主義的な美辞麗句は耳に心地よく、そのヒステリックな行動、絶え間ない感情的な叫び、勝利を誇示するような芝居がかった態度は、一部の人にとっては面白いかもしれない。しかし、勝利を祝う人々に運命が残酷な仕打ちを与えるのは、よくあることだ。

私的な意見を述べさせてもらえば、ミレイ氏が最近(経済学者)ハンス・ヘルマン・ホッペ氏に対して行った攻撃は馬鹿げていると思う。ホッペ氏の主張はまったく正しい。すなわち、ミレイ氏は中央銀行の閉鎖も、(政府債務の)デフォルトもしていない。これらは経済を理解し、権力よりもアルゼンチン国民の幸福に関心のある人であれば、正しい行動だっただろう。ミレイ氏は単にホッペ氏を侮辱し、経済を理解していない愚か者呼ばわりしただけだ。それにもかかわらず、ミレイ氏は中央銀行を維持するための実際の経済論を提示するのではなく、ケインズ派の教科書からそのまま引用した政治論を展開した。これは歴史上のあらゆる社会主義者やケインズ派の政治指導者が用いてきた議論と同じものだ。すなわち、インフレは今、短期的に必要である。なぜなら、それを止めることによる政治的コストはあまりにも壊滅的なものとなるから、というものだ。

これを経済学に関する深い洞察であるかのように装うのは馬鹿げている。これは単に、ミレイ氏が権力を維持するための政治戦略論にすぎない。ミレイ氏やその同僚の社会主義者、ケインズ主義者が正しいかどうかはさておき、中央銀行制度を擁護する最も単純で愚かな政治的論拠を理解していないという理由で、ホッペ氏を経済学に無知だと呼ぶのは馬鹿げている。ホッペ氏が学者であるのに対し、ミレイ氏は現実世界の指導者として成果を上げているという理由で、ホッペ氏が経済を理解していないとほのめかすのもまた、無意味である。ホッペ氏、あるいは16歳の少年の誰かでも、アルゼンチンに6カ月で720億ドルの負債を負わせ、1年で通貨供給量を2倍に増やせば、ミレイ氏がアルゼンチンで達成したのと同じ成果を上げることができる。

それよりも、ミレイ氏自身が選挙運動中、なぜ中央銀行の閉鎖が不可欠であり、譲歩できないと主張していたのかを説明したほうが、はるかに有益だったろう。ミレイ氏もまた、経済を理解していない愚か者だったのだろうか。それとも、自分が攻撃の標的にして名を馳せたような、嘘つきで日和見主義のインフレ政治家たちと同じような人物だったのだろうか。

(次を全訳)
Javier Milei One Year Assessment [LINK]

【コメント】筆者アモウズ氏は『ビットコイン・スタンダード』(邦訳あり)などの著書のある、オーストリア学派エコノミスト。リバタリアンを自称するミレイ・アルゼンチン大統領の1年間の政策運営をデータに基づき検証したうえで、看板に偽りありとして厳しく批判している。データが示すところによれば、ミレイ氏の政策は、通貨供給量と政府債務を膨らませ、それによって目先の景気回復を演出するインフレ政策である。ミレイ氏の政策には一部評価するべき点があるかもしれないが、財政・金融政策でケインズ主義的な悪政を繰り広げるようでは、そんなプラス面は吹き飛ぶ。日本ではアベノミクスというインフレ政策によって引き起こされた経済の疲弊が深刻になり、それをごまかすために、一部の政治家がさらなるインフレを主張するという、末期的な様相を呈している。一部のリバタリアンが熱狂的に支持してきたミレイ氏も、それに似た徒花にすぎなかったのだろうか。政治家は勇ましい演説ではなく、結果によって評価されなければならない。真実は時とともに明らかになるだろう。

2025-01-12

孫子、戦わないことが最善

『孫子』は中国・戦国時代の兵法書として名高い。武人で兵法家の孫武(孫子)が著し、後継者たちによって徐々に内容が付加されていったと考えられている。合理的な哲学に貫かれ、時代を超えた普遍性を持つ。その最大の特色は、戦争の方法を説いた書でありながら、戦わないことを最善とすることにある。

孫子 (講談社学術文庫)

孫子の軍事思想の原則の一つは、「戦いに勝利を収めることを論ずる兵法書でありながら、なるべく実際の戦闘をしないよう説くことにある」と中国史学者の渡邉義浩氏は指摘する。それを象徴する言葉が「百戦して百勝するは、善の善なる者にあらざるなり」(謀攻)である(引用は原則、渡邉『孫子』による。表記を一部変更。カッコ内は篇名)。

諸子百家と呼ばれる古代中国の思想家のうち、王道政治を理想とする儒家の孟子は、覇者の行う戦争を否定した。無差別平等の愛である兼愛を説いた墨子は、侵略戦争を絶対的な悪と考え、侵略された者を守ることで「非攻」を貫こうとした。

これらに対し孫子は、戦いを善悪により判断しない。戦いはすでに現実として存在するものとしてとらえる。そのうえで、相手を自分に従わせることを戦いの目的と考え、相手をなるべく傷つけずに自分に従わせようとする。それを「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」(同)と表現している。

戦わずに敵の軍を屈服させるための具体的な弊の用い方を4種に分類して、その優先順位を述べる。①上策は、外交策や離間策などの奇策をめぐらし、戦わずに勝利を収めることだ。②次善の策として、戦いがちょうど始まろうとする出端を討つ。③整った陣の兵を討つことは、もはや勧められることではなく、④城を攻めることは下策である。城攻めのような包囲策は、敵の10倍の兵力が必要だという。

孫子の大きな特徴は、勝敗を事前の計算で予測するような合理性にある。古代の君主は宗廟の前で戦争の吉凶を占った。これに対して、孫子は宗廟で占いをするのではなく、軍議を開いて敵軍と自軍の有利・不利な条件を比較して、数え上げていくべきだとする(始計)。「勝算」という言葉はこれを起源とする。

孫子の合理性は、戦争が多額の資金を費やし、国を経済的に滅亡させることを説くところにも表れる。用間篇によれば、10万の兵を起こして、1000里の彼方に遠征すると、1日ごとに1000金を費やすという。前出の渡邉氏によれば、漢代では「中家」、すなわち中産階級の総資産は10金とされる。現代の総資産の中央値を1000万円とすると、1000金は10億円となる。100日間にわたり戦争をすれば、1000億円が吹き飛ぶ。

戦争の負担は直接的なものに限らない。孫子によれば、10万の兵を起こして1000里の彼方に遠征すると、耕作に携われない者が70万家にも及ぶという。漢代では一家は平均5人より構成され、2人を働き手とするから、140万人分の働きを奪われることになる。出兵の規模が増え、遠征地が遠くなれば、負担はさらに大きくなる。

莫大な費用がかかることは、戦争に勝ったとしても同じである。このため謀攻篇では、すでに触れたように、「百戦して百勝するは、善の善なる者にあらざるなり」と述べ、すべての戦いに勝利したとしても、それが最善ではなく、避けられる戦いは避けるべきだと主張するのである。

それでも、たとえば侵略戦争を仕掛けられた場合、戦わなければ国家は滅亡する。このような場合、孫子は孟子や墨子のように反戦を主張するのではなく、戦争に莫大な費用がかかることを踏まえたうえで、どのように戦うべきかを実践的に示す。それは、とにかく戦いを長引かせないことだ。

作戦篇によれば、「戦争には(巧みでなくとも速さで勝つ)拙速は聞くことがあるが、巧みであっても長期にわたる(巧遅という)ものはない」。「拙速」は、現代の日本語では悪い意味でしか使わないが、兵は「拙速」であることが求められ、巧みでも遅い「巧遅」は求められない。長期間の戦争を行うことが不利であることは、経済的な負担の大きさだけではない。勝利はしたものの、力も財も尽きたことを見た他国が、自国に攻め込んで来ることも、警戒しなければならないのである。

孫子の合理性を示すもう一つの主張は、情報の重視だ。綿密な情報分析を客観的に行うことができれば、実際に戦う前に勝敗は決していよう。

敵の情報を得るために中心となるものは、間(間諜、スパイ)である。『孫子』は、最後にスパイの重要性を説いた「用間篇」が置かれているのが、非常に大きな特徴となっている。今では常識とされているが、当時において、戦争における情報の大切さを説いたのは画期的だった。

中国哲学研究者の湯浅邦弘氏によれば、それまでの戦争とは、事前の情報収集に腐心するというよりは、とにかく現場に行って奮闘してみようというものだった。ところが孫子は、情報こそが勝敗を決める、情報の収集と分析によって勝敗の8割がたは決まってしまうと喝破したのだ(『老子x孫子』)。

「彼を知り己を知らば、百戦してあやうからず」(謀攻)という有名な一節は、現代風にいえば「インテリジェンス」、つまり諜報活動、情報収集などをきちんとすべきだということを、すでに2500年前に言っているのだから、「大変な驚き」だと湯浅氏はいう。

古来最も代表的かつ最もすぐれた兵書と目される『孫子』を読み進めていくと、孫子は「戦争に勝つ」ことを至上の目的とは考えていないこと、少なくとも正面切った戦闘で敵を打ち破ることを至上の目的とは考えていないことがわかってくる。孫子の兵法の真髄は「戦わずして勝つ」ことであって、それはスパイや謀略などによって達成すべきものなのだ。

スパイや謀略というと、卑劣な手段であるかのように軽視・侮蔑されがちだ。だがそれでは勝利はおぼつかないし、無謀な戦闘によって多大な人命・財産を犠牲にすることになる。中国哲学研究者の浅野裕一氏は「陰謀や裏切り、虚偽や冷酷が渦巻く諜報の世界にこそ、戦争の惨禍を最小限に押さえ、国家と民衆を救済せんとする、高貴な精神が脈打っている」(『孫子』)と指摘する。