2024-06-09

帝国主義を批判した鉄鋼王

米国は南北戦争後の急速な経済発展により、1880年代に世界最大の工業国となった。そして1890年代に開拓対象となる西部辺境(フロンティア)が消滅したこともあり、海外進出の機運が高まっていった。

米国は建国以来、国際政治への介入を控える「孤立主義」の伝統を守ってきた。それが大きく転換し、海外進出に向かうきっかけとなったのは、米西戦争である。1898年、キューバとフィリピンを舞台に米国とスペインの間で戦われた。日本でいえば日清戦争の終結から四年後のことだ。

カーネギー自伝 新版 (中公文庫)

1895年2月、ホセ・マルティによってキューバのスペインからの独立運動が始まると、スペインは苛烈な弾圧を行い、長引く動乱のため島は荒廃した。一方、同じくスペイン領のフィリピンでも独立の機運が高まり、1896年8月に独立革命が勃発、その後一時挫折したものの1898年に入って再燃していた。

米国はキューバに投資と貿易の利害をもち、戦略的関心を抱いてもいた。米国民はみずからの独立戦争を想起して同情の声を上げ、これを米国のイエロー・ジャーナリズムと呼ばれる扇情的な新聞が煽った。映画「市民ケーン」のモデルとして知られるウィリアム・ランドルフ・ハースト、ピューリツァー賞に名を残すジョセフ・ピューリツァーらの経営する新聞はその代表格だ。

1898年2月、ハバナ港に停泊中の米戦艦メイン号が爆発、沈没し、将兵二百六十名が死亡した事件をきっかけに、前年大統領に就任していた共和党のマッキンリーは3月末、スペインに最後通牒を突きつけた。「メイン号を忘れるな」のスローガンが叫ばれる中、米議会はキューバ独立のための武力行使を決定した。

ところが戦争の第一報はフィリピンから届いた。1898年5月1日、米海軍がマニラ湾に侵入し、スペイン艦隊を撃破した。スペイン軍はキューバとフィリピンの双方で反乱軍や米軍と対峙せざるをえず、総崩れとなる。スペインのカリブ艦隊は7月に米軍に撃破された。8月には米軍とエミリオ・アギナルド率いるフィリピンの反乱軍により、マニラが陥落した。

米西戦争の勝利により、米国はスペインからフィリピン、グアム、プエルトリコを奪ったうえ、キューバを独立させて事実上の保護国とした。

しかし、米政府のこの決定に対し、国内では憂慮する声も広がった。

米国のフィリピン領有を正式に決めるパリ講和の最中、米国内では反対運動が盛り上がり、反対派は1898年10月、反帝国主義連盟を結成した。連盟に名を連ねたのは、作家マーク・トウェイン、共和党上院議員ジョージ・ホア、民主党大統領候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアン、哲学者ウィリアム・ジェイムズらである。

フィリピン併合への反対論の核心は、キューバ解放のための戦争がアメリカ帝国の建設を導いてしまったことにあり、独立宣言により誕生した共和国アメリカが異民族を支配する帝国となることは、アメリカ民主主義の堕落だと主張した。

連盟メンバーの一人であるエール大学の社会学者ウィリアム・グラハム・サムナーは1899年、「スペインによるアメリカの征服」と題する講演で、「アメリカは、膨張主義ないし帝国主義の道を歩むことによって、アメリカがこれまで象徴してきたものを失い、スペインが象徴してきたもの——すなわち帝国主義——を採用することになるのであるから、戦争ではスペインに勝っても、観念および政策の分野ではスペインに屈したことになる」と米政府を批判した。

反帝国主義連盟メンバーのうち異彩を放ったのは、鉄鋼王として知られるアンドリュー・カーネギーである。スコットランドからの移民で、無一文から巨万の富を築いた。

カーネギーは、キューバ独立を支援する米国の戦争には賛成した。この戦争は純粋に人道的理由に基づき、領土拡大が目的ではないというマッキンリー大統領の言葉を信じたからだ。

ところが戦争の結果、米国がフィリピンを併合する見通しが強まった。カーネギーはこれに怒り、フィリピンを米支配下に置くあらゆる条約の締結に反対しようと決意する。そして公然と反対論を唱え、反帝国主義運動に資金を提供するようになった。実現はしなかったものの、フィリピンの人々を米国の支配から自由にするため、資金力に物を言わせてフィリピン諸島を買い取ることまで試みた。

米西戦争が終結した1898年夏には、併合反対論は戦勝への熱狂にかき消されがちだった。しかし秋になると、反帝国主義運動が米国内に広がり、全国組織の連盟へと発展していく。カーネギーは雑誌への寄稿で、次のように力強く訴えた。
米国がフィリピンの独立への戦いを弾圧する役目を果たすなど、できるだろうか。もちろんできない。どんな顔をして、フィリピンの学校に米国の独立宣言を掲げつつ、彼らに独立を認めないなどということができるだろう。フィリピンの人々の心は、リンカーンの奴隷解放宣言を読んだとき、どう反応するだろう。私たちは独立を実践しつつ、従属を説くというのか。書物では反乱を教えつつ、武力で鎮圧するというのか。反逆の種をまきつつ、忠誠という収穫を期待するというのか。
カーネギーはこう続けた。「米国は早くもその使命に飽き飽きして捨て去り、勝利の独裁、つまり外国人による支配を打ち立てるという不可能な任務に乗り出そうというのか。そして自治という天賦の権利を主張してきた数百万のフィリピン人が、独立を勝ち取ったことを最大の誇りとする米国人の最初の犠牲者にならなければならないのか」

カーネギーのこの議論は、英国の植民地から独立して誕生した由来を持つ米国自身が、他国をその意思に反して植民地にする矛盾を鋭く衝いている。

カーネギーは新聞、国会議員、自分と同じ資本家らにも手紙で併合反対を訴えた。マッキンリー大統領にも何度も手紙を書いたが、やがて直接話す機会が訪れた。

米西戦争の終結後、マッキンリー大統領は西部を遊説し、至る所で米国の勝利について演説し、拍手で迎えられた。そしてフィリピンから撤退するのは大衆の意思に反するという印象を受けて首都ワシントンに帰り、それまでの撤退方針を撤回した。

カーネギーはある閣僚から、大統領を考え直させるよう頼まれ、ワシントンへ行き、大統領に会った。しかし、大統領は頑としてきかなかった。「撤退するなら、国内で革命が起きる」という。それでとうとう閣僚らも、これは一時の駐留であって、将来何かの口実をつくって撤退するのを条件にして、いちおう了承した。

カーネギーら反帝国主義連盟による併合反対論は、米国が「白人の責務」として、未開で自治能力を欠くフィリピンを民主化するという主張にも押し切られ、1898年12月、米国のフィリピン領有が正式に決まった。

カーネギーは自伝でこう回想している。「ここに、アメリカ合衆国ははじめて、重大な国際的な過ちを犯したのである。この誤りが、結局、この国を国際的な軍国主義の渦中に投じ、またそれが強力な海軍の建設というところに追い込んだのである」

フィリピンでは、米国による領有の決定と同時に、アギナルド率いるフィリピン独立軍との激しい戦闘が開始された(米比戦争)。独立運動は1901年に鎮圧されるが、それまでに米軍の残虐な仕打ちで20万人以上のフィリピン人が死亡した。カーネギーの恐れたとおり、米国が独立を阻む弾圧者に変貌したのである。

資本家というと、帝国主義的な対外膨張を好むイメージがあるかもしれない。たしかにフィリピン併合当時、通商拡大による経済効果を期待し、賛同した資本家たちもいた。だが一方で、カーネギーのように強く反対した人もいた。

米国はその後、アジア進出を加速させ、太平洋戦争やベトナム戦争につながっていく。戦勝の熱狂の中、帝国主義を批判したカーネギーの見識と勇気は、末永く称えられる価値がある。

<参考文献>
  • 貴堂嘉之『南北戦争の時代 19世紀』岩波新書、二〇一九年
  • アンドリュー・カーネギー(坂西志保訳)『カーネギー自伝』(新版)中公文庫、二〇二一年
  • Stephen Kinzer, The True Flag: Theodore Roosevelt, Mark Twain, and the Birth of American Empire, Henry Holt and Co., 2017

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