いやそれどころか、政府と国民の利害は本来一致せず、一方の力が増せば他方の力は必ず弱まるとすらいえる。十九世紀米国の政治家ジョン・カルフーンが喝破したように、課税が存在する国家では、税に寄生して生きる階級(純税消費者)と納税する階級(純納税者)という、まっこうから利害の対立する二つの階級が生じるからである。政府を構成する政治家や官僚、政府支出や補助金で恩恵を受ける個人や集団が前者に属し、物やサービスを生産し富を生み出す一般国民が後者に属するのはいうまでもない。
ところが言論人の多くはしばしば、この政府と国民の本質的対立を忘れて物を書き、話の筋道を混乱させる。最近の典型例は、ドル安や金価格高騰をきっかけに取り沙汰されている、金本位制復活論をめぐる議論だろう。
ジャーナリストの谷口智彦は『金(ゴールド)が通貨になる』(幻冬舎新書)で「金本位制復帰〔略〕がアメリカの国力と指導力を保全するのに役立つのだとすると」云々と書いている。ここで谷口がいう「国力」とは国民の力、「指導力」とは政府の力をそれぞれ指すようだが、だとすれば奇妙な記述だ。
なぜなら金本位制の最大の目的は、金の保有高によって政府の発行できる貨幣の量に歯止めをかけ、国民の保有する貨幣の価値が毀損するのを防ぐことだからである。つまり金本位制は国民の力を強め、政府の力を弱める制度である。両者を同時に「保全する」ことはできない。
また谷口が金のことを学んだというエコノミストで、2009年12月に死去した高橋靖夫は最後の著書『金本位制復活!』(東洋経済新報社)で「日本の『円の国益』はいったい誰が本気で守るのであろうか」と憂いてみせつつ、「民間が金に目覚めて保有を増やせば、いざというときには国家がそれを活用すればいい」などと書いている。
国家による民間の金の「活用」とは、平たくいえば、米大統領フランクリン・ローズヴェルトがニューディール政策の一環としてやったように、政府が国民の財産を力づくで没収することである。政府の利益にはなっても、とても国民の利益とはいえまい。
これらの例に限らず、「国益」「国力」をあたかも絶対的価値であるかのように崇め、それらの増大を無条件に善として論じるケースは枚挙に暇がない。だが政府と国民の区別もしない杜撰な議論は混乱を招くばかりで、政治や経済の本質を理解することはできない。
(2012年4月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
>>騎士コラム
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