ニューウェルはこう書く。私が製品かサービスを生み出し、それを売り、お金を蓄えるとしよう。それが可能なのは、私の製品を他の人が自分の意思で買う場合だけである。これが自由な市場である。私がお金を蓄えることができるのは、私が良い製品かサービスを提供する場合だけである。お金は私の生産能力のみに対して自発的に支払われる代償である。
自発的な取引においては、売り手と買い手の両方が得をする。そうでなければ、どちらか一方は、あるいは両方とも、取引はしない。
自由な市場では、所得の不平等が生じるのは次の場合だけである。(1)私が製品を作る(2)あなたが自分の意思でそれを買う(3)得た収入を私が使わずに貯める――。この場合、所得の不平等は良い不平等である。最も効率的で生産的な人々が、彼らの財布への「投票」によって、お金と資本を蓄える。
お金の額に不平等が生じるのは、生産への貢献が不平等だったことへの代償である。所得の不平等はあるかもしれないが、同時に、それに釣り合う生産の不平等もある。
しかし政府が介入すると、話は違ってくる。私が製品を作ると、他の人は法律によって私と取引を強制されるか、一定の条件を受け入れなければならない。よくあるのは政府の許認可だ。政府が介入すると、取引は実際には二種類になる。まず、私の生産的サービスに対してあなたがお金を払う。次に、私が政府から得た特権に対してあなたがさらにお金を払う。
特権を持つ人々は、自分の生産能力よりも多くの収入を得る。その犠牲になるのは消費者である。消費者は、特権を持つ人々のために、より多くのお金を支払わなければならない。ここから所得の不平等が生じる場合、それは悪い不平等である。マルクスの言葉を借りれば、それは搾取である。
だから所得の不平等は問題ではない。もしそれが自然に生じるものであり、政府の与える特権によって生じるものでなければ。生産性に釣り合わないほどの不平等が生じるのは、政府が介入するときだけである。ニューウェルはこう述べた後、次のように強調する。
政府は自分で何も生産することができず、政府の持ち物はすべて国民から奪い取ったものである。この基本的な真理を前提とすれば、政府が国民の福祉を改善できるなどと考えるのは馬鹿げている。国家という偶像を崇めるのはもうやめよう。自由な市場に帰らなければならない。
社会の貧富の差を嘆く知識人の多くは、政府は市場経済にもっと厳しい規制の網をかけよ、規制緩和は許さないと声高に叫ぶ。しかし以上のニューウェルの文章を読めばわかるとおり、彼らは間違っている。政府の規制を求める知識人は、自分の主張とは裏腹に、搾取と悪い格差の拡大に加担しているのである。
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