2023-08-30

人間は行動する、幸せを求めて

人間は行動する。人生とは行動の連続だといえる。

行動には目的がある。ここでいう行動とは、熱いものに触れた瞬間に手を引っ込めるとか、転びそうになったら手をつくとかいった「無条件反射」ではない。個人の価値判断に基づいて、ある目的を目指し、そのためにふさわしい手段を思い描きながら行う、意識的な行動だ。選択であり、決断であり、意志の表れである。

ロートパゴス族のもとから部下たちを連れ戻すオデュッセウス(Wikipedia)

人間は行動を通じて、人生をより良いものにしようとする。言い換えれば、幸せを手に入れたり、不安を取り除いたりしようとする。そうした行動の一つが交換、つまり、あるものを別のものと取り替えることだ。

たとえば、中学生がポケットモンスター(ポケモン)の「ピカチュウ」のカードを友だちの「イーブイ」のカードと取り替える。大学生が飲食店で働いてバイト代を稼ぐ。主婦がスーパーでお金を払って野菜や魚を買う。これらはすべて交換であり、人間の行動だ。

人間の行動を簡潔に定義すれば、「目的のあるふるまい」となる。もう少し詳しくいえば、「目的を達成するために、想像に従って手段を用いること」と定義できる。

この定義には三つの重要な言葉がある。一つ目は「目的」だ。人間の行動には必ず、達成しようとする目的がある。目的がなければ行動とはいえない。中学生がピカチュウのカードを手放すのは、その代わりにイーブイのカードを手に入れるという目的があるからだ。もし何ももらえないのにピカチュウのカードを取られたら、それは交換ではない。

二つ目は「手段」だ。手段とは、目的を達成するために使うものを指す。たとえば歯磨きに使う、歯ブラシ、歯磨き粉、水、自分の手は、すべて歯を磨くための手段だ。言い換えれば、それらは行動の手段である。

なお、人間の行動には必ず「所有権」の考えが伴う。もし歯磨きをしたければ、歯ブラシ、歯磨き粉、水、手を自分のものとして持っていなければならない。このように、人間の行動について考える際には、所有権の存在が必ず前提となる。

人間の行動の定義に含まれる、三つ目の重要な言葉は「想像」だ。想像とは、手段を使うことによって目的を達成できる道筋を思い描くことを指す。たとえば、もし歯ブラシ、歯磨き粉、水、手を使えば、歯をきれいにすることができ、それによって美しい歯を手に入れることができるという思いだ。

人生を改善したいという思いは、人を行動に駆り立てる。行動には計画が必要であり、さまざまな計画の中でどれが一番役立つかを判断することも必要だ。ただし行動は、勤勉に努力する活発な人だけのものではない。何もせず怠惰に過ごすことも、意志によって選択した以上、一種の行動だ。もしかするとその結果、昔話に出てくる「物ぐさ太郎」のように、幸せを手に入れるかもしれない。

物ぐさ太郎は信濃国(長野県)のなまけ者で、あまりの物ぐさぶりに驚きあきれた地頭は、京の国司から村に夫役(労働課役)がかかったとき、太郎に押しつける。都に上った太郎は一転してまめに働き、美女を妻とすることに成功。実は天皇の子孫という身分も判明し、甲斐(山梨県)、信濃の2国を与えられ、120歳まで長生きしたというおめでたい話だ。

人生を改善したいという思いの生じない状況では、人は積極的な行動を起こさない。ギリシャ神話に出てくる「ロートパゴス族」の国で、人々はロートスというナツメに似た木の果実を食べ、平和に暮らしている。その実はえもいわれぬほどおいしいため、その地を訪れた英雄オデュッセウスの部下でこれを味わった者は、故郷へ帰ることを忘れてしまう。このためオデュッセウスは嫌がる部下たちを無理やり船まで引きずって行き、他の部下がロートスの実を食べないうちに出航したという。

このような国では、人は満ち足りてしまっているから、人生を改善するために行動を起こそうとは思わないだろう。もっとも、オデュッセウスに引きずられまいとして抵抗した部下たちは、行動を起こしたといえる。ロートパゴスの国を離れるよりも、とどまるほうが幸せだと考えたのだ。

行動は必要と不満からのみ生じる。何かを目指す、目的のある努力だ。その究極の目的はつねに、不足や不安をなくすことにある。必要を満たし、満足を得、幸福をつかむことだ。

<参考資料>
  • Ludwig von Mises, Human Action: A Treatise on Economics, Ludwig von Mises Institute, [1949] 2009. (ミーゼス『ヒューマン・アクション』村田稔雄訳、春秋社、2008年)
  • Ludwig von Mises, Socialism: An Economic and Sociological Analysis, Ludwig von Mises Institute, 2010. 
  • Ludwig von Mises, The Ultimate Foundation of Economic Science, Ludwig von Mises Institute, 2010. (ミーゼス『経済科学の根底』村田稔雄訳、日本経済評論社、2002年)
  • Shawn Ritenour, Foundations of Economics: A Christian View, Wipf and Stock Publishers, 2010.

2023-08-27

自由放任主義が復権する日

伝統的に自由放任主義だった経済学が、政府の介入を求める方向に変質した最大のきっかけは、1929年のニューヨーク株式暴落を発端に襲った世界恐慌(大恐慌)である。


大恐慌が起こった原因は、教科書や新聞・テレビで流布される公式見解によれば、「政府による経済規制が不十分で、資本主義が暴走したため」とされる。だが、それは事実に反する。拙著『教養としての近代経済史』で詳しく述べたように、大恐慌の原因は自由な資本主義ではなく、政府・中央銀行が過剰なマネーを社会にあふれさせたことだった。

しかし米国の経済学者たちは、大恐慌を自分の地位向上にもってこいのチャンスと考えた。大学のさびれた教室で学生相手に授業を繰り返す人生ではなく、省庁の幹部や大統領の顧問になれるかもしれない。おまけに報酬もいい。そのためには、政府にどのような提言をすればよいか。わかりきった話だ。「望まれるアドバイスが、経済を『管理』するために、政府に多くの権力、資金、影響力を与えるといったたぐいのものであることは、天才でなくてもわかる」と、経済学者トーマス・ディロレンゾ氏は皮肉を込めて述べる。

ちょうど大恐慌さなかの1936年、政府に経済介入を求めるのに、格好の口実を与えてくれる本が出版された。英経済学者ジョン・メイナード・ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』である。ケインズはこの本で、不況からの脱出のためには、財政・金融政策を通じた国家の経済への積極的介入が必要であると主張した。これは政府の権力を強化するうえで絶好の「科学的」隠れみのとなった。

ケインズやその弟子たちの創始した「マクロ経済学」はたちまち経済学会を席巻し、それと同時に「市場の失敗」と呼ばれる理論があふれ始めた。大恐慌をはじめ、事実上あらゆる経済問題の原因が経済の自由の多さと、政府の監督・計画の不足にあるという理論だ。現在学会や世間でもてはやされ、ノーベル経済学賞を受賞するような業績はほぼすべて、この「市場の失敗」を声高に主張するものだ。

第二次世界大戦が終わる頃には、米国の経済学会は社会主義を含め、あらゆる種類の介入主義に支配されるようになった。その後数十年間、今に至るまでその状況はほぼ続いている。

日本も大差ない。さすがに1990年代初めに社会主義諸国が崩壊した後は、大学におけるマルクス経済学(マル経)の影響力は衰えたものの、それでも『人新世の「資本論」』といったマルクスを再評価する反資本主義的な書籍がベストセラーになるなど、一般市民の間ではむしろ社会主義の人気が復活する兆しすらある。

近代経済学(近経)の領域でも、米国から直輸入した介入主義の支配が続いている。近代経済学は「市場原理主義」だという悪口をネット上などでよく目にするが、現実をわかっていない。経済学の教科書を開いてみれば、自由放任主義(市場原理主義)を否定し、「市場の失敗」を強調し、政府の介入を説く記述にあふれている。

近代経済学が介入主義に染まった現実を何より雄弁に物語るのは、日本銀行の新たな総裁に、東京大学名誉教授の植田和男氏が経済学者として初めて選ばれた事実である。植田氏の専門の一つは、介入政策を説くマクロ経済学だ。日銀は本来なら市場で決定するべき金利や通貨量を操作し、ときには経営危機に瀕した金融機関を救済する国家組織(中央銀行)である。植田氏も日銀も、どう見ても「市場原理主義」にはほど遠い。

変化の兆しがないわけではない。1970年代にフリードリヒ・ハイエク、ミルトン・フリードマンと介入主義に批判的な経済学者が相次いでノーベル経済学賞を受賞した。彼らの主張は70〜80年代の米レーガン、英サッチャー両政権に支持され、中曽根康弘政権の日本では行政改革が断行された。当時はケインズ政策を採用した日米欧で財政が肥大して経済の活力が奪われ、それに対する危機感が高まったという時代背景があった。

現在は当時以上に、財政悪化が深刻になっている。この現実に対する危機感が本当に強まったとき、経済学と経済政策における自由放任主義の真の復権が始まるかもしれない。

<参考資料>
  • Thomas J. DiLorenzo, The Politically Incorrect Guide to Economics, Regnery Publishing, 2022.
  • 木村貴『教養としての近代経済史 狂気と陰謀の世界大恐慌』徳間書店、2023年
  • 同『反資本主義が日本を滅ぼす』コスミック出版、2022年

2023-08-24

経済学、堕落の歴史

「経済学は、すべての科学の中で最も歴史が新しい」。経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは主著『ヒューマン・アクション』(1949年)の冒頭でそう述べている。

近代になって、多くの新しい科学が出現したのは事実だ。しかし実際には、古代ギリシャにさかのぼる古い学問体系の中にすでに存在していた知識が、今では独立の学問になっているにすぎない。

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リチャード・イリー

経済学は違う。これまで思いもよらなかった領域を切り拓いた。大昔から人間の心を支配してきた、善と悪、公正と不正、義と不義という視点とは異なった視点から、人間を見ることを教えたのである(もっとも、今でも経済を善と悪、公正と不正といった道義的な視点でみる人は少なくない)。

自然現象が自然法則に支配されているのと同様に、経済現象は経済法則に支配されている。経済を動かすのは人間の行為(ヒューマン・アクション)だから、経済法則は「人間行為の法則」といってもいい。この人間行為の法則を研究するのが、経済学である。

18世紀後半に活躍した英国のアダム・スミスは「古典派経済学の父」として有名だが、「近代経済学の父」となると、1世紀下って、19世紀後半に「限界革命」と呼ばれる学問上の変革を起こしたフランスのレオン・ワルラス、英国のウィリアム・ジェボンズ、オーストリアのカール・メンガーの3人になる。とくにメンガーは、商品の価値はそれを利用する人の心によって決まるという「主観価値説」を築いた貢献が大きい。

ところがほぼ同時期に、早くも経済学の堕落が始まった。この頃死去した社会主義思想家カール・マルクスの影響は別にして、経済学の合理的な発想を蝕む一派があった。ドイツで栄えていた「ドイツ歴史学派」である。

ドイツ歴史学派は、経済現象の歴史性と国民的特殊性を強調し、経済法則の普遍性を否定するところに特徴がある。要するに、経済のあり方は国によって様々で、万国共通の経済法則(今でいう「グローバルスタンダード」)など存在しない、という立場だ。だからたとえば、近代経済学が説く自由貿易のメリットを認めず、保護貿易を主張する。人類普遍の経済法則の存在を前提とする近代経済学とは、まさに水と油である。

政府による経済介入を批判する近代経済学に対し、歴史学派はむしろ介入や規制を肯定した。歴史学派の領袖でベルリン大学教授を務めたグスタフ・シュモラーは、同大学における自分と同僚の主な仕事は「ホーエンツォレルン家(ドイツ皇帝)の知的ボディーガード」を形成することだと、誇らしげに宣言した。

当時ドイツは文化面でも発展目覚ましい先進国であり、経済大国として台頭しつつあった米国から多くの学生が留学した。その一人がリチャード・イリーだ。今も続く米経済学会の最重要組織、アメリカ経済学会(AEA)の創設者の一人である。

イリーはニューヨーク州の古いピューリタン(清教徒)の家系に生まれた。コロンビア大学卒業後、ドイツ留学で歴史学派に学び、帰国後、ジョンズ・ホプキンス大学やウィスコンシン大学で教鞭をとった。

1885年、アメリカ経済学会を設立する。伝統的な自由放任主義の経済学者たちに対抗し、経済学の専門家を国家主義に従わせるのが狙いだった。同学会の設立文書は、その意図をはっきり示している。政府を「その積極的な支援が人間の進歩の条件に欠かせない教育・倫理機関」と称揚する一方、自由放任主義を「政治的には危険で、道徳的には不健全」だと非難した。

米国における最初の経済学会組織がこのような性格のものであったことは、同国におけるその後の経済学の発展に暗い影を落とすことになる。

<参考資料>
  • Thomas J. DiLorenzo, The Politically Incorrect Guide to Economics, Regnery Publishing, 2022.
  • Economics in Service of the State: The Empiricism of Richard T. Ely | Mises Institute [LINK]
  • ミーゼス『ヒューマン・アクション』村田稔雄訳、春秋社、2008年

2023-08-21

クリーブランド大統領、戦争を拒む

クリーブランド米大統領は1893年からの2期目、経済恐慌に見舞われた。1930年代の大恐慌が襲うまで、米国で最も厳しい恐慌といわれた。原因はクリーブランドの2度の任期の間に登板した、共和党のベンジャミン・ハリソン大統領による政策だ。金融緩和、財政の乱費、関税引き上げなどのせいで、健全な経済が失われた。


クリーブランドが恐慌克服のために採った政策は、通貨の信任回復だ。当時、ドルの裏付けについて激しい論争が繰り広げられていた。米国は金と銀を組み合わせて裏付けとする「金銀複本位制」を採用していたが、銀の割合を増やしてインフレを起こし、借金に苦しむ農民ら労働者階級の負担を軽くしようと主張する一派が勢いを増していた。今でいえば「リフレ派」だ。代表的な論者は民主党左派のウィリアム・ジェニングス・ブライアンで、金だけを裏付けとする「金本位制」を批判し、「金の十字架の上に人類を磔にしてはならない」と訴えた。

これにクリーブランドは反対し、インフレはドルの購買力を失わせ、むしろ貧しい労働者を苦しめることになると主張した。政府に毎月一定量の銀購入を義務付けていた「シャーマン銀購入法」を廃止するとともに、財務省に銀貨の増発を強いる議会のインフレ提案に拒否権を発動し、米国を金本位制に戻すことに成功した。

クリーブランドの2期目の功績としてもう一つ見逃せないのは、外交政策だ。

まず、前任のハリソンが上院に批准を求めたハワイ併合条約を撤回し、頓挫させた。ハワイの米国人事業家や「後進民族の文明化」を望む人々は、この条約を推進していた。しかし反植民地主義の古い世代に属するクリーブランドは、ほとんどのハワイの人々が、米国が援助したハワイでのクーデターに同意しておらず、米国の一部になることを望んでいないことを知っていた。クリーブランドは、この条約は不正に結ばれたものであり、アメリカ独立宣言にうたわれている真の自決権に反するものだと考えていた。

クリーブランドはまた、キューバの反乱を助けるという名目でスペインと戦争することを拒否した。中立を保ち、スペイン支配に対するキューバの暴動を支援することを拒否し、代わりにスペインがキューバを徐々に独立に導くような改革を採用するよう促したいと考えた。このため、キューバ反乱軍の交戦権を認めるよう求める決議を採択した上院と対立する。議会はキューバの独立を認めると脅し、大統領に逆らおうとした。これに対してクリーブランドは、そのような決議は大統領の権限を簒奪するものだと断じた。

クリーブランドは、スペインと戦争すれば政治的に利益を得ることができたかもしれない。1890年代の経済恐慌から米国民の意識を遠ざけることができたからである。しかし、そのような安易な道は選ばなかった。台湾の独立をあおり、中国との戦争も辞さないように見える現在の米政権とは大違いだ。

1897年にウィリアム・マッキンリーがクリーブランドに代わって大統領に就任した後、状況は一変する。マッキンリーは1898年、米国をスペインとの戦争(米西戦争)に引きずり込み、ハワイも併合して、帝国主義への道を歩み始めた。

クリーブランドは退任後、「アメリカ反帝国主義連盟」を結成し、米国の帝国主義路線に反対していく。米国の財政肥大と対外膨張が限界を迎えようとしている今こそ、クリーブランドの叡智を見直すべきだろう。

<参考資料>
  • Ivan Eland, Recarving Rushmore: Ranking the Presidents on Peace, Prosperity, and Liberty, Independent Institute, 2014.
  • Grover Cleveland Presented the Best Example of a True Liberal Populist | Mises Wire [LINK]
  • The Ron Paul Institute for Peace and Prosperity : When President Grover Cleveland Rejected Congressional Pressure for War against Spain [LINK]
  • Why Grover Cleveland Is Mostly Forgotten Today | Mises Wire [LINK]

2023-08-18

災害支援を拒んだ大統領

ドナルド・トランプ氏が2024年に再選を果たすかどうか次第だが、米大統領で、1期おいて計2期を務めた人物はこれまでのところ、1人しかいない。グロバー・クリーブランド(任期1885~89年、93~97年)である。


米民主党は、福祉政策に熱心な現在の姿からは想像しにくいけれども、20世紀に入る頃まで、伝統的に経済の自由を重んじ、「小さな政府」路線の政党だった。同党出身のクリーブランドは、その最後の輝きを象徴する大統領といえる。

行政の無駄な支出を抑える姿勢は、大統領になる前から鮮明だった。1882年、ニューヨーク州バッファローの市長に就任すると、「拒否権市長」として知られるようになる。

拒否権は米独特の制度で、議会を通過した法案に対して行政の長がその法案を無効にする権限を指す。大統領の拒否権が有名だが、知事や市長にもある。

クリーブランドはその拒否権を盛んに行使し、市政の最初の半年で100万ドル近くを節約した。7月4日の独立記念日の予算から500ドルを戦没将兵追悼記念日の行事に転用する決議にも拒否権を行使し、1割にあたる額を個人で寄付した。

ニューヨーク州知事を務めた際も同様の態度で臨み、その後、いよいよ大統領として本領を発揮する。大統領としての拒否権の大半は、南北戦争の退役軍人の年金に関するものだった。これには理由がある。

南北戦争に従軍して障害を負った退役軍人や戦死した兵士の扶養家族に年金を支給する一般年金法は、すでに施行されていた。ところが下院議員らは、自分の選挙区の有権者向けに個別の年金を設けることで、歓心を買おうとした。

今かかっている病気が20年前の戦争のせいだとして給付を求めるなど、不正な年金申請も多かった。クリーブランドは拒否権発動にあたり、「逸脱した目的に国の恩恵の流用を許すことが、立派な市民に対する義務だとも親切だとも思わない」と述べた。

さらにクリーブランドは、一般年金法の拡大にも拒否権を発動した。それまでの年金よりも範囲が広く、費用がかかりすぎるという理由からだ。その際、「年金の将来費用に関する見積もりは不確実で信頼性に欠け、常に実際の金額をはるかに下回ることは、経験が証明している」とコメントした。

1887年、クリーブランドは最も有名な拒否権を発動する。当時、干ばつがテキサス州の農家を襲っていた。いくつかの郡の農作物が駄目になった後、議会は同地の農民が種子を購入するために10万ドルを計上した。クリーブランドはこの支出に拒否権を行使し、こう述べた。

「この法案は、博愛心・慈善心を満足させるために公金を使おうとしている。そのような支出は合衆国憲法で認められていないし、国民全体の利益にかかわらない個別災害の救済にまで、連邦政府の権限や義務が及ぶとは考えられない。政府の権限と義務に対する制限を無視する傾向が広がっているが、これには断固抵抗しなければならない。国民が政府を支えるのであって、政府が国民を支えてはならない」

さらにこう続けた。

「個別の災害まで連邦政府が救済すれば、人々が政府の温情を期待するようになり、米国民のたくましい気質を弱めてしまうだろう。また、国民の間に思いやりの気持ちや行動が広がるのを妨げてしまうだろう。そうした気持ちや行動こそが、同胞としての絆を強めるのに」

クリーブランドはこうして、必要な援助は民間の慈善事業や既存の政府事業で行うべきだと主張した。

政府の災害支援といっても、その原資は国民の税金に他ならない。支援が歯止めなく広がれば、その負担はいずれ被災者自身を含む国民の肩にのしかかる。政府に頼らない生き方の大切さを、クリーブランドの言葉は教えている。

<参考資料>
  • How Grover Cleveland Wielded the Veto Power to Curb the Growth of Government - Foundation for Economic Education [LINK]
  • Veto of the Texas Seed Bill | Mises Institute [LINK]

2023-08-15

明治維新と武士のリストラ

明治新政府は1868(明治元)年3月、五箇条の誓文を出し、天皇親政のもとで公議世論の尊重と開国和親を骨子とする政府の基本方針を示した。日本の近代化を推し進めた明治維新の始まりである。

秩禄処分 明治維新と武家の解体 (講談社学術文庫)

さまざまな改革のうち、最も重要なものの一つが「四民平等」である。士農工商(四民)の封建的身分制度が撤廃され、華族(公卿・大名)・士族(幕臣・藩士)・平民(農工商)の3族籍に再編された。とりわけ急激な変化に直面したのが、幕末まで支配階級の一角を占め、明治維新で士族となった幕臣・藩士、すなわち武士である。その歩みをたどってみよう。

新政府の実権を握ったのは、薩摩・長州・土佐・肥前などの藩を代表して活動していた武士たちだった。彼らは藩を廃止して権力を中央の政府に集める必要があると考え、1869年1月、出身藩の4藩主に働きかけて、版(土地)と籍(人民)を朝廷に返すことを申し出させた(版籍奉還)。ほとんどの藩主もこれに続き、政治的・軍事的な権力が朝廷のもとに集められた。

つづいて新政府は、薩長土3藩の兵士合計1万人を政府直属の軍隊とし、この軍事力を背景に1871年7月、廃藩置県を断行した。大改革だったにもかかわらず、目立った反対はなかった。すでに戊辰戦争など戦乱の中で藩の財政が破綻し、とくに小藩では藩の存立そのものが脅かされていたからだ。

それに加えて、華族と士族の家禄(世襲性の俸禄)は全額が政府に引き継がれ、彼らの生活維持がしばらくは保証されたことも功を奏した。とくに旧藩主の多くは維新前よりもむしろ多額の所得を確保している。

しかし政府の側からみれば、負担が重くのしかかる。家禄および戊辰戦争の論功行賞として与えられた賞典禄は、合わせて財政支出の3割以上を占めた。家禄をなんらかの形で処分しないことには、国家財政はとうてい保てないことは明らかだった。また理念のうえでも、版籍奉還で藩の仕事に携わることがなくなり、徴兵令(1873年)で兵役の義務も平民と同じになった士族に、とくに禄を支給する理由はなかった。

そこで政府は秩禄処分に乗り出す。最初にこれに取り組んだのは、大久保利通大蔵卿が岩倉使節団で外遊中だった留守を預かった井上馨大蔵大輔である。井上は秩禄の額を減じたうえで、その6年分を公債で交付し、以後の支給を打ち切る構想を立てた。公債で数年分を支給するのは、受け取った側が、秩禄より額が減るものの、公債の利子を生計の足しにするか、あるいは公債そのものを売却して事業の資金にするか自由に選べるようにするためだ。支給する国の側も公債を発行するだけで、すぐには資金を必要としないので好都合である(鈴木淳『維新の構想と展開』)。

井上の構想はいったん挫折したものの、枠組みは引き継がれ、実行に移される。政府はまず1873年12月、希望者に秩禄6年分を年利8%の秩禄公債と現金を半々で交付する家禄奉還を行った。これに応じて9万人余りが家禄全額を奉還し、一部奉還者を含めて家禄の23%が処分された。政府は奉還者に対して官有地を安く払い下げ、農業への転身を支援した。

つづいて1875年には支給方法を米などの現物から現金(金禄)に改めた。最終的には1876年8月、前年の江華島事件による緊張を契機に、金禄公債を交付して家禄の支給を打ち切ることを決めた。

金禄公債は5%、6%、7%、10%と4種類の利率のものが交付され、禄高の少ない者ほど利率が高くなるように設定された。それでも金禄総額1776万円強のうち、519万円強は華族分で、476人の華族が金禄の3分の1近くを占め、残る3分の2強が約32万人の士族に分与されていた。士族の大半を占める下士層に与えられた7%利付公債は年間の利子が29円50銭、1日あたり8銭にすぎず、大工職人(45銭)や土方人足(24銭)の日給にも劣った。これでは最低限の生活を維持するので精一杯である。

一方、金禄公債の利払いも元金償却も、結局は国民の税金によらなければならない。そしてその納税者の大部分は農民である。言い換えれば、主として農民の負担によって、封建領主階級の禄が国家に買い取られたわけである(井上清『明治維新』)。

漢学の素養など武士の教養を生かせる教師や官吏、あるいは警官など安定した収入を得られる職種に就けなかった士族の多くは、没落していった。士族の生活状況は地域によっても異なり、1883(明治16)年に政府が全国視察した記録によると、岐阜県士族については就業に励む者が多い一方で、宮城県士族の様子については「維新の際、減禄甚(はなはだし)く、為めに生計を失し、妻子離散するに至る者多し」と記されている。

政府の近代化政策に不満を抱く士族は、1874年の佐賀の乱など、士族反乱を起こしたが、1877年の西南戦争での敗北を最後に、武力で反抗する道をとざされた。

秩禄処分で金利生活者となった士族にとって最も生活を脅かすものは物価高騰だったが、西南戦争による不換紙幣の大量増発と、1870年代の大隈重信大蔵卿による積極財政で増進したインフレは、士族を苦境に陥れることになる。多数の士族が公債を一斉に手放したことから、売値の相場も下落した。

貴族化された華族に対し士族にはまったく特権が存在せず、その呼称はただの出自の証にすぎなかった。それでも明治政府は模範的集団として士族を位置づけ用途した。教育の重視や家名の尊重など武家風の生活習慣は平民の間にも浸透し、日本のミドルクラスは出自にかかわらず武士的な人々を軸に形成された。

「このことは、国家建設への積極性や職責への忠実性など多くの面で近代化の梃子となる」と歴史学者の落合弘樹氏は著書『秩禄処分』で強調する。ただし、もともと戦嫌いだった民衆をアジアへの拡張主義や戦争肯定に導くという負の側面もあった。

落合氏が述べるように、秩禄処分を現在にたとえるならば、公務員をいったん全員解雇して退職金も国債での支給とし、そのうえで必要最小限の人員で公職を再編するというような措置である。財政改革が急務となるなかで、「武士のリストラ」である秩禄処分は、今日の参考となる部分がありそうだ。

<参考文献>
  • 鈴木淳『維新の構想と展開』(日本の歴史)講談社学術文庫
  • 井上清『明治維新』(日本の歴史)中公文庫
  • 落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武家の解体』講談社学術文庫
  • 大日方純夫他『日本近現代史を読む』新日本出版社

2023-08-12

愚かな農政、「経済安保」揺るがす

日本経済新聞がまた、「経済安全保障」がらみのニュースを「特報」した。農林水産省が外国人の農地取得の実態把握に乗り出すそうだ。農地の住所や持ち主などをまとめた「農地台帳」に所有者の国籍という項目を追加し、農地取得の許可申請でも国籍の記載を求める。「外国資本による国内の土地買収という経済安全保障上の懸念に対応する」という。
この農地取得の規制は、他の土地取得規制と同様、肝心なことを見落としている。それは「土地を買う人の反対側には、必ず土地を売る人がいる」という事実である。

農地を売るのは日本の農家だ。では、なぜ農家は農地を手放すのか。ジャーナリストの窪田新之助、山口亮子両氏は共著で「ここ数年、農家が高齢化して一斉に離農し、全国的に農地が大放出される時代に突入している」と指摘する(『誰が農業を殺すのか』)。

また、両氏の別の共著によれば、1961年のピーク時に609万ヘクタールあった耕地面積は、2019年時点で439万ヘクタールまで減少している(『人口減少時代の農業と食』)。

減少の主な要因は、農地の転用と荒廃農地の発生だ。農地は宅地に比べて固定資産税が安く、所持するのにあまり費用がかからない。一方で、住宅や工場、道路など農外の目的に転用されると高値で売れる。

荒廃農地の発生については、「富山県と同じくらいの面積の耕作放棄地」がメディアの決まり文句となっている。だが耕作放棄地の問題には「国による自作自演の面もある」(『誰が農業を殺すのか』)と両氏は指摘する。

国は戦後一貫して農地の造成を進めてきた。1961〜2021年に造成された農地は、113万ヘクタールにのぼる。造成は今も続いており、2020年に新たに拡張された耕地面積は0.8万ヘクタール、21年は0.7万ヘクタールだ。0.7万ヘクタールは東京ドームおよそ1500個分にあたる。

日経の記事は、外国人と思われる農地取得は22年1〜12月に140ヘクタールほどで、「東京ドームおよそ30個分に相当する」と強調する。しかし、国が同時期に造成した農地の広さ(東京ドームおよそ1500個分)に比べれば、微々たるものでしかない。

1970年代初めにはすでに食料生産は過剰基調に陥っていたにもかかわらず、干拓や浅海開発、山を切り拓いての造成などを行う国営農地開発事業は継続された。全国で増え続ける耕作放棄地の中には、もはや耕作する必要性のないもの、そもそも開墾された当初から必要性の薄かったものが少なからず混じっている。「耕作放棄地の増加に国の農地開発が拍車をかけたのは、間違いない」(同)

外国人の取得する農地のうち、荒廃農地がどの程度を占めるのかはわからない。しかし荒廃農地かどうかにかかわらず、国の過剰な造成で農地があふれ、それが外国人の農地取得の一因になったのは間違いない。外国人の農地取得は「経済安全保障上の懸念」だと政府は言う。かりにそれが本当に憂慮すべき事態だとしても、その原因を生んだのは政府自身の愚かな農政なのだ。

外国人の土地取得に対しては、日本に限らず、敵視する政治家や一般人が多い。しかし、それは人種差別と紙一重だ。

米国では、「外国の敵対者」や外国(とくに中国)企業の農地購入を禁止する法案を検討・可決する州が増えている。CNNによれば、最近成立したフロリダ州法は、「懸念される外国」のほとんどの市民に対し、海港、空港、発電所を含む「軍事施設または重要なインフラ施設」上またはその10マイル以内の土地の購入を禁止する。懸念される外国には、中国、ロシア、キューバ、北朝鮮、イランを含む。2024年の共和党大統領候補であるデサンティス知事は、公の場で繰り返し中国を非難した。

これに対し法案可決後、フロリダ州在住・在勤の中国人グループと、中国人と中国系米国人を主な顧客とする不動産会社が、この法律は合衆国憲法下の平等保護と適正手続きの保障に反するとして州当局を訴えた。

問題がこじれれば、中国との対立に拍車をかける恐れもある。国家の安全保障を錦の御旗に掲げる政府の規制強化は、かえって国際的な緊張を高め、人々の安全保障を揺るがす。

<参考資料>
  • 窪田新之助、山口亮子『誰が農業を殺すのか』(新潮新書、2022年)
  • 同『人口減少時代の農業と食』(ちくま新書、2023年)
  • States accelerate efforts to block Chinese purchases of agricultural land | CNN Politics [LINK]

2023-08-09

EV電池のおかしな「経済安保」

政府がまたぞろ、お得意の「経済安全保障」に乗り出した。日本経済新聞の「特報」によれば、経済産業省はトヨタ自動車が日本で計画する電気自動車(EV)用リチウムイオン電池の投資に約1200億円を補助する。経産省は車載用電池などの蓄電池を「経済安全保障上の重要物資」と定め、2022年度の第2次補正予算で蓄電池分野の供給や開発の支援に3300億円を確保している。
「車載用電池の世界シェアは中国が5割を占め、日本は1割弱にとどまる。車載用電池はEVの競争力を左右する。EVシフトが進むなか、国内の製造力を高め、サプライチェーン(供給網)の分断リスクを下げる」と日経は解説する。

けれども、この「経済安保」なるもの、どれほどの意味があるのだろうか。リチウムイオン電池を組み立てるのは日本国内だとしても、その材料となる重要鉱物は、国内では手に入らない。

日経の別の記事にあるように、EV電池用の重要鉱物を供給する国は一部に偏っている。とくに存在感が際立つのは中国だ。例えば、世界のリチウム加工・精製は65%を中国が占め、コバルトは生産の74%がコンゴ民主共和国(旧ザイール)に、加工の76%が中国に偏る。同じく戦略物資とされる半導体以上に、生産国・地域の偏りが著しい。

先進国中心に構成する国際エネルギー機関(IEA)はこの状態を問題視し、今後、加盟30カ国を中心に、調達の多様化や新たな資源国への共同投資、リサイクル網の拡充などを検討するという。ずいぶん悠長な話だ。そんなことでは、中国集中の「是正」がいつ実現するやらおぼつかない。

それに、重要鉱物の生産には厄介な問題がある。環境破壊や人権問題だ。世界のリチウムの埋蔵量は、南米のチリ、アルゼンチン、ボリビア3カ国で半分以上を占め、第4位に米国が続く。ところが米国でのリチウム開発は、環境保護との兼ね合いで進んでいない。リチウムを地下から取り出し、抽出するには水を大量に消費し、水や土壌を汚染するほか、水位も低下させる。

世界のコバルトの約7割を生産するコンゴ民主共和国では、危険な労働条件や児童労働といった人権問題が指摘されている。「コンゴ民主共和国では何千人もの子供たちがコバルトを採掘している。コバルトに長時間さらされると、健康に致命的な影響を及ぼす可能性があるにもかかわらず、大人も子供も、最も基本的な保護具さえ付けずに働いている」(国際人権団体アムネスティ・インターナショナル)という。

もっとも、コンゴ民主共和国のコバルト鉱山の大半を所有または出資している中国は、こうした主張に対し「真実を歪曲し、誇張している」と反論する。中国を非難する欧米諸国は、植民地支配の時代から多国籍企業を通じ、アフリカの天然資源を搾取し、富を略奪してきた歴史がある。これに対し現在のコンゴ民主共和国は、中国と互いの利益によって結びついている。欧米が「中国偏重を見直せ」と説教しても、効き目はないだろう。

こうした事情を考えれば、重要鉱物の生産が中国など特定の国に偏る現状が、大きく変化する望みは薄い。それにもかかわらず、日本はEV電池の組み立てだけを国内の工場で行おうとしている。サプライチェーンの分断リスクに備えた「安全保障」として、意味があるとは思えない。

「何もしないよりはましだ」という意見があるかもしれない。もしコストがかからないなら、それもいいだろう。だが実際には、多額の税金が投入される。税金の無駄遣いで悪名高い日本政府に、「経済安保」に関してだけは賢い出費ができると考える理由はない。

それよりも安上がりでいい方法がある。中国の国内問題にすぎない台湾問題を理由とした防衛費の増額をやめ、むしろ減らすのだ。緊張緩和によって真の安全保障につながる。国民は「防衛増税」ならぬ「防衛減税」の恩恵に浴することができるだろう。

<参考資料>
  • The Environmental Downside of Electric Vehicles - Foundation for Economic Education [LINK]

2023-08-06

原爆投下の「共犯者」

第2次世界大戦末の1945年7月26日、日本に無条件降伏を要求する共同宣言が発表された。「ポツダム宣言」である。

ベルリン郊外のポツダムで開かれたトルーマン米大統領、チャーチル英首相、スターリン・ソ連首相による3巨頭会談で決定されたのち、蒋介石中華民国総統の同意を得て、米英中3国首脳の名で発表された。ソ連は日ソ中立条約が有効期間中であったため署名せず、8月の対日宣戦布告ののち署名した。

検証「戦後民主主義」 (わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか)

少し時を戻して、スティムソン米陸軍長官が6月下旬、知日派外交官ジョセフ・グルーらの協力を得て作成した当初の草案では、「日本の降伏を確実にするには、天皇制維持がどうしても必要である」という考えから、天皇制維持を確約する条項が明確に含まれていた。

ところが決定版では、この天皇制維持条項が削除された。この変更に大きな影響を及ぼしたのは、米国による原爆の完成である。

トルーマンが望んでいた結末は、原爆を日本に対して実際に使用することで、ソ連が参戦する前に戦争を終わらせることだった。日本の戦後処理にソ連が一切口出しできないような状態を作り出すためだ。

ポツダム会談の始まる前日の7月16日、米国は史上初の原爆実験に成功する。24日には、8月5日以降に使用可能だとトルーマンに報告された。

トルーマンは、8月5日以降、ソ連が参戦予定の8月15日(実際には8月9日に早まる)直前までの10日間に、原爆で日本の都市を壊滅させることで降伏させるというシナリオを描いた。そのためには、ポツダム宣言が発表される7月26日から原爆使用予定日の8月5日(実際は天候不良のため8月6日に実行)までの間に、日本に降伏してもらっては困る。

そこで日本が受け入れそうもない内容のポツダム宣言で、降伏引き延ばしを図ったのである。天皇制維持条項の削除は、原爆投下強硬派だったバーンズ米国務長官の助言の結果とみられている。

日本の鈴木貫太郎内閣は、「国体護持」(天皇制維持)が宣言に明記されていないことを理由に、ポツダム宣言を黙殺した。まさにこの反応は、トルーマンやバーンズが期待していたもので、思惑どおりの結果となったのである。

トルーマン政権による原爆投下が無差別大量殺戮という重大な戦争犯罪であることはいうまでもない。しかし、もし昭和天皇をはじめとする日本政府上層部が天皇制維持にこだわらず、ポツダム宣言を速やかに受け入れ、戦争をもっと早く終わらせていれば、原爆投下は避けることができた。昭和天皇には原爆を招いた「招爆責任」があると、長崎大名誉教授で反核運動家の岩松繁俊氏は批判した。

一方、すでに述べたように、トルーマン大統領や当時の米政府の重鎮たちが、日本側にそのような「招爆」状況を作らせるように画策したという事実もある。したがって、日本側の「招爆責任」と米国側の「日本招爆画策責任」の両方を複眼的に論じる「日米共犯的招爆論」のほうが、より正確だと歴史学者の田中利幸氏は指摘する(『検証「戦後民主主義」』)。

この場合の「共犯」とは、田中氏が断るように、事後結果として見れば、意図せずに「共犯的行為」となったという意味であり、最初から日米両国が「共同謀議で行った犯罪」を意味するものではない。

原爆投下において日米政府がある意味で「共犯」だったという大胆な指摘は、リバタリアニズム(自由主義)の視点からは違和感がない。リバタリアニズムにとって戦争とは、A国の市民とB国の市民との戦いではなく、A国の政府とB国の政府が双方の市民を殺戮や重税で苦しめる犯罪行為にすぎないからだ。

リバタリアニズムの理論家マレー・ロスバードはこう指摘する。「あらゆる国家戦争は当該国家の納税者に対する侵害の増大を伴い、そしてほぼあらゆる国家戦争が(現代の戦争ならすべてが)、敵国の無辜の市民に対する最大級の侵害(殺人)を伴っている」(『自由の倫理学』、強調は原文)

広島・長崎への原爆投下に関しては、米政府だけでなく、国体護持にこだわり、戦争を早く終わらせなかった日本政府の責任も厳しく問わなければならない。

<参考資料>
  • 田中利幸『検証「戦後民主主義」 わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか』(三一書房、2019年)
  • ロスバード『自由の倫理学』(森村進他訳、勁草書房、2003年)

2023-08-03

原爆投下という戦争犯罪

米国人とみられる男性ユーチューバーが先日、東京の地下鉄内で日本人に「ヒロシマ、ナガサキを知ってるか?」「なぜ(原爆で)日本人が死んだかわかるか? 真珠湾攻撃のせいだよ」「また原爆を落としてやる」などと発言し、批判を浴びた。その後謝罪したものの、路上で通行人に殴られ、「返り討ち」にあう羽目となった。


ヤフーニュースによれば、ソーシャルメディアでは「あんな侮辱をしたんだから自業自得」「日本人はこういう時にやり返してこなかったから舐められる。よくやった」といった意見が目立つ一方で、「暴力はよくない」と否定的な声もあったという。

原子爆弾(原爆)はアジア太平洋戦争末期の1945年8月6日に広島に、9日に長崎に米国によって投下され、年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が命を奪われた。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられた。

しかし原爆投下の是非については、ユーチューバーの一件が示すように、日本人と米国人で見方が対立し、日米それぞれの市民の間でも意見は分かれる。リバタリアニズム(自由主義)の観点から、この問題を考えてみたい。

まず、リバタリアニズムの意味を確認しておこう。この哲学の基本は「誰の権利も侵害していない者に対する権利の侵害は正当化できない」ということだ。ここで言う権利の侵害とは、物理的な暴力の行使である。平たくいえば、「人をいきなり殴りつける」「人の財産を一方的に奪う」といったことのみを、強く批判する。

この見解に対しては、たいていの人はとくに異論はないだろう。「暴力はよくない」とは、ユーチューバーの一件に対しても普通の日本人が述べた意見なのだから。

つまり、リバタニアニズムの特徴はその原理原則にあるのではない。リバタリアンの米経済学者ウォルター・ブロック氏が強調するように、「その際立った特質は、だれもが賛同するであろう原則を、世の中のありとあらゆる場面に適用させようとする厳格な首尾一貫性、というか偏執的なまでの頑固一徹さにある」(『不道徳な経済学』)。

この特質に着目するならば、リバタリアニズムの訳語は単に「自由主義」ではなく、『不道徳な経済学』の日本語版がそうしているように、「自由原理主義」と訳してもいいかもしれない。

リバタニアニズムの「厳格な首尾一貫性」を示す一例に、税金がある。ほとんどの人は自由主義の原則と国家による税金の徴収とが矛盾しているとは思わないだろうが、リバタリアンは違う。「徴税は、リバタリアンの原則に明らかに反している。税金の支払いを拒否する人は、だれかの権利を暴力的に侵害しているわけではない。徴税とは、善良な市民に対する、国家による暴力的な権利の侵害にほかならない」(同)

すなわち、リバタリアンは暴力の批判について、その主体が政府か個人かで区別しない。ならば原爆投下をどう考えるかは明らかだろう。たとえば、兵士が訓練中、同僚の兵士を銃撃して殺害すれば、殺人罪に問われる。そうだとすれば、市民に対し原爆を投下し、数万、十数万もの命を奪えば、その主体がたとえ政府(民間人がそのような大規模な殺戮を行うとは考えにくいが)であろうと免責せず、はるかに重い罪として糾弾しなければならないだろう。

かりに例のユーチューバーが言ったように、原爆投下がハワイの真珠湾の米軍に対し日本軍が行った奇襲攻撃への報復だったとしても、広島・長崎の市民(女性や子供を含む)が真珠湾を攻撃したわけではないし、真珠湾に一般市民はほとんどいなかった。

リバタリアンの米歴史家、ラルフ・ライコ氏は「広島と長崎の破壊は、東京やマニラで日本の将兵が処刑されたどんな罪よりも重い戦争犯罪だった」と指摘したうえで、「(原爆投下を命じた米大統領)ハリー・トルーマンが戦争犯罪人でないなら、誰もそうではなかったことになる」とトルーマン大統領の重大な戦争犯罪を指弾する。

リバタリアンらしく論理的に首尾一貫し、米国人として勇気ある主張だ。しかし、この意見に対し「よく言ってくれた」と溜飲を下げるだけの日本人に対しては、リバタリアンは厳しい目を向けることだろう。原爆投下という戦争犯罪には、「共犯者」がいたからである。

<参考資料>
  • ブロック『不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ』(橘玲訳、ハヤカワ文庫NF、2020年)
  • Harry Truman and the Atomic Bomb | Mises Wire [LINK]