暴力には二種類ある。政府による公認の暴力と、暴力団などによる非公認の暴力だ。このうち、より怖ろしいのは公認の暴力である。政治的な公認は必ずしも正義を意味しないにもかかわらず、正義の旗印の下に徹底的に実行されるからだ。
著者は、民主主義という「仁義」が廃れると、すべて暴力が解決する裏社会の理不尽なルールに表社会が支配されてしまうと警鐘を鳴らす。しかしこの主張は、すでに民主主義の名の下に巨大な暴力が日常化している事実を見落としている。
暴力団が用心棒代と称して数万円のみかじめ料を取れば、恐喝罪で逮捕される。一方、政府が劣悪な福祉、教育、司法の対価として国民から年収の4割もの税や保険料を取っても、逮捕されない。逮捕されるのは支払いを拒んだ国民の方だ。
著者は、民主主義とは「我々弱く無力な人間たちにとって、本当に最後の砦」と擁護する。しかし一般国民が政府からまだ身ぐるみ剥がされずに済むのは、民主主義のおかげではない。財産権という、政治に先立つ別の原理のおかげである。
著者によれば、仁義とは「規範」「ルール」「道義」である。ところが民主主義は正義の名の下に、他人の財産を奪ってはならないという、人間の最も普遍的な規範の一つを破壊する。著者の主張と逆に、民主主義は仁義を滅ぼすのである。