2021-10-31

国家という巨悪

生きることは闘うことだ (朝日新書)

国民から税を収奪する国家の本質は、みかじめ料を納めさせる暴力団と同じであるという考えは、西洋思想ではアウグスティヌスやマックス・ウェーバーをはじめ昔から言われていることだ。けれども日本では、お上に従順な一般市民はもちろん、専門の知識人や言論人ですらそれを理解している人は少ない。

しかし、例外はある。作家の丸山健二氏だ。1966年、当時最年少の二十三歳で芥川賞を受賞後、長野県に移住し、文壇とは一線を画した独自の創作活動を続ける「孤高の作家」として知られる。

丸山氏は発言集『生きることは闘うことだ』(朝日新書、2017年)で、こう言い切る。「国家はひとつの悪だ。それも巨悪だ。その悪に比べたらやくざの悪など実にちっぽけなものでしかない」(第二章)

先に国家の本質は暴力団と同じだと書いたが、その規模からいえば、暴力団(やくざ)は国家の足元にも及ばない。政府(国家)は社会において最大・最強の暴力を有する組織であり、その意味で丸山氏が言うとおり、他を圧する「巨悪」である。やくざとの違いは合法か非合法かにすぎず、法律は政府が作るのだから、自分の行為はすべて合法にできる。

多くの人は、国家が社会に秩序をもたらすと誤解している。丸山氏はその誤りを正す。「秩序と法を敬うことと、国家に盲従することは、一見似ているように思えても、その内容は大きく異なる」「大半の国民をただ羊のようにおとなしくさせておくだけの秩序ならば、断じて拒否すべきだ」(同)

安心を国家に保障してもらおうという考えも浅はかだ。丸山氏は言う。「安心を他者に求めることは却って危険を招く。自分では何もしないくせに庇護してくれそうな者を当てにするという、非常に醜悪な体質を改めない限り、国民の代表者たちはこれまで通りの、やれもしないことを次から次へと口走るばかりの、そしてその地位から得られる余禄が目当ての連中のみとなる」(第一章)

このように個人を突き放す厳しい発言は、昨今のメディアでは「自己責任論」と叩かれそうだ。しかし個人が他の個人との自発的な協力でなく、国家を頼って身の安全を図ろうとすれば、国家という暴力団はますます栄え、個人は結局食い物にされる。

最も甚だしい倒錯は、世界平和すらも国家に頼って実現しようとすることだ。丸山氏は「世界平和を口にするとき、絶対に目をそらしてはならないこと。それはどうしてこうもたやすく国家に従ってしまうのかという、ただこの一点にある」と喝破し、「そこに言及しない平和会議や平和集会は、単なる戯れ言の交換の場にすぎない。それどころか、もしかすると戦争を暗に容認する行為になるかもしれない」と指摘する(第二章)。

丸山氏の批判は、国家のお先棒をかつぐメディアや「専門家」にも向けられる。「ひっきりなしにテレビに登場するコメンテーターは、結局、国民を騙す側に身を置く、大悪党の手先の小悪党にすぎない。そもそもスポンサーや国家の影響を避けては通れないかれらに本音など言えるわけがなく、ましてや正真正銘の正義を唱える資格などあるはずもないのだ」(第一章)

本書はコロナ騒動が始まる前に出版されているが、まるで十分な根拠もなくコロナの恐怖を煽り、死亡を含む副作用の恐れを無視してワクチン接種を勧めるコメンテーターたちの登場を予言していたかのようだ。

丸山氏の発言すべてに賛同するわけではないものの、国家の本質をここまで正確に見抜き、恐れず発言する人物は、日本の文化人を見渡しても稀有といえる。最後に、七十代後半になっても衰えない丸山氏の若々しい正義感と闘争心が集約された文章を掲げる。

「すべての命は闘いつづけるために生まれたものであり、闘うこと自体が生きる証であり、意義であり、目的であって、しかし、真の人間として闘おうとした場合には、背中に正義を負わなければならず、そうなると、闘いの相手は当然悪ということになり、その最たるものである国家悪を避けては通れない」(第三章)

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