2021-11-25

国家という特殊な制度

反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー

青々と広がる水田、金色の麦畑は美しい。しかし、これら米や麦といった穀物が国家の暴力的な起源と密接な関係にあると知ったら、景色の見え方も変わるかもしれない。

政治学者・人類学者ジェームズ・スコット氏は、考古学や人類学の最新成果に基づく著書『反穀物の人類史〜国家誕生のディープヒストリー』(立木勝訳、みすず書房、2019年)で、「穀物が国家を作る」という大胆な仮説を提示する。

古代の最初の主要農業国家(メソポタミア、エジプト、インダス川流域、黄河)の生業基盤はどれも驚くほど似通っている(第四章)。すべて穀物国家で、小麦や大麦、黄河の場合は稗や粟などの雑穀を栽培していた。それに続く初期国家も同じパターンを踏襲し、水稲と新世界のトウモロコシが主要作物のリストに加わった。

なぜ穀物は、最初期の国家でこれほど大きな役割を果たしたのか。中東ではレンズ豆、ヒヨコ豆、エンドウ豆といった豆類、中国ではタロイモや大豆など他の作物はすでに作物化されていたのにである。

ここで、スコット氏は驚くべき考えを示す。「わたしの考えでは、穀物と国家がつながる鍵は、穀物だけが課税の基礎となりうることにある」。すなわち目視、分割、査定、貯蔵、運搬、「分配」ができるということだ。豆類や芋類にもこうした性質はいくつか見られるが、すべての利点を備えたものはない。

スコット氏は「穀物にしかない利点を理解するためには、自分が古代の徴税役人になったと想像してみればいい。その関心は、なによりも収奪の容易さと効率にある」と指摘し、こう続ける。「穀物が地上で育ち、ほぼ同時に熟すということは、それだけ徴税官は仕事がしやすいということだ。軍隊や徴税役人は、正しい時期に到着しさえすれば、1回の遠征で実りのすべてを刈り取り、脱穀し、押収することができる」

これに対し芋類は、一年後に熟すが、あと一年か二年は地中に残しておいても大丈夫だ。必要なときに掘り出し、残りは地中で貯蔵できる。軍隊や徴税官が芋をほしいと思ったら、ひとつずつ掘り出さなければならない。豆類も長期間にわたって継続的に実をつけるので、徴税官が早く来すぎたらほとんどまだ熟していないし、遅れてきたら、収穫の大半は納税者が食べてしまっているか、隠したり売ったりしてしまっている。

したがって、穀物が地上で同時に熟することには、国家の徴税官が判読、査定できるという、計り知れない利点がある。こうした特徴があったからこそ、小麦、大麦、米、トウモロコシ、稗や粟などの雑穀は第一級の「政治的作物」になったのだとスコット氏は説く。

じつは初期穀物国家は、人が暮らす場としては例外にすぎず、集中的な農業に好適な、生態学上のわずかなニッチにしか存在しなかった。その外には狩猟と採集、海洋での漁労と採集、園耕、移動耕作、専業遊牧といった、多種多様な生業活動が広がっていた。しかし国家の徴税官からみれば、それらに課税することはほとんど不可能だった。狩猟採集民や海洋採集民は分散して動いているうえに、収穫物は多様で傷みやすいからだ。

こうして初期の国家は穀物を基礎に築かれていく。そこで暮らす農民にとって、生活環境はおせじにも良好なものではなかった(第三章)。まず、急速な農業化によって食餌内容が炭水化物に偏り、多くの必須栄養素が不足した。残っている農民の骨格を、同時代に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較すると、狩猟採集民のほうが平均五センチ以上も背が高い。これは、食餌が多様で豊富だったからだと考えられる。弱った肉体に疫病が襲う。感染症が人口に繰り返し壊滅的な打撃を与えた。

追い打ちをかけたのが、国家による課税と戦争だ(第四章)。穀物での税が収穫の五分の一を下回ることはまずなかったとみられる。農民はエリート層を支える税を納めるため、事実上、生存できるぎりぎりの線で生活していた。

戦争ではたとえ勝ったとしても、戦争そのもののために作物が焼き払われ、穀物倉が強奪され、家畜や家財が押収されたから、生活する者にとっては、自国の軍も敵国の軍と同じくらい大きな脅威だった。スコット氏は「初期の国家は天候にも似て、恩恵をもたらすよりも、生存への脅威を追加するものだった」と記す。

これらを踏まえ、スコット氏は国家の「崩壊」という重要なテーマに議論を進める(第六章)。多くの歴史家は国家の崩壊を嘆き悲しむ。しかし、国家がこれまで述べられたように抑圧的なものなら、なぜ嘆く必要があるだろう。スコット氏は、歴史家にはひとつの偏見があると指摘する。「国家センターという頂点への人口集中を文明の勝利として見る一方で、他方では、小さな政治単位への分散を政治秩序の機能停止や障害だとする、ほとんど検証されることのない偏見」である。

初期国家の臣民が、税や徴兵や伝染病や抑圧から逃れるために農業からも都市の中心地からも離れていくことは、決して珍しくはない。こうした国家の放棄は、狩猟採集や遊牧といった原始的な生業形態への退行かもしれないが、解放と見ることもできる。もちろん国家の外で別の種類の捕食や暴力が待ち受けることもあるが、「都市中心部の放棄という事実そのものを野蛮と暴力への下降だと決めつけることはできない」とスコット氏は強調する。

たとえば、ギリシアで都市国家が姿を消した「暗黒時代」は紀元前1100年頃から同700年頃まで続いた。宮殿のある中心地は多くが放棄され、たいていは物理的に破壊されて燃やされた。ところが、西洋文学の源泉とも仰がれる叙事詩『オデュッセイア』『イーリアス』はまさにこのギリシア暗黒時代のもので、あとになって、現在知られている形で文字に起こされたにすぎない。スコット氏は「実際に、こうした朗誦と記憶を繰り返すことで生き延びていく口承叙事詩は、少数の識字エリート層に依存した文字テクストよりも、はるかに民主的な形態の文化を構成していると主張していいのかもしれない」と指摘する。

スコット氏によれば、今から四百年前まで、地球の三分の一は狩猟採集民、移動耕作民、遊牧民、独立の園耕民で占められていたのに対し、国家は本質的に農耕民で構成されるので、その範囲は世界にわずかしかない耕作好適地にほぼ限られていた(序章)。多くの人々は、国家の空間を出入りして生業様式を切り替えることができた。国家の締めつけをかわすチャンスは十分にあった。

現在、国家は生活のあらゆる局面に介入し、その存在を意識せずに暮らすことはほとんどできない。しかしスコット氏が指摘するように、明確な国家覇権の時代の始まりを紀元1600年頃だとすれば、「国家が支配してきたのは、私たちの種の政治生活の最後の1パーセントのうちの、そのまた最後の10分の2にすぎないことになる」。

今の国家はもちろん穀物には頼らず、その支配力を国民の財産全般に広げた。それでも補足は完璧ではないから、コロナ対応給付金などを口実に、マイナンバーと金融口座のひも付けをもくろんだりしている。実現すれば、昔の徴税官が豊かに実った田畑を眺めたときのように、政府当局者は顔をほころばせることだろう。

『反穀物の人類史』は、国家が庶民から税を搾り取る特殊な制度でしかないことを教えるとともに、脱国家の可能性に思いを巡らすきっかけを与えてくれる。

<関連記事>

2021-11-23

株主資本主義は悪くない

「公益」資本主義 (文春新書)

資本主義に対する批判がかまびすしい。さすがに「よし、それなら社会主義で」とは(今のところまだ)言いにくいので、代わりに主張されるのが資本主義の「修正案」だ。岸田文雄首相の「新しい資本主義」はその一つだが、この種の議論のはしりといえるのは、原丈人氏の『「公益」資本主義』(文春新書、2017年)である。

本の宣伝文句によれば、原氏は米国シリコンバレーで数々の成功を収めてきた「最強のベンチャー事業投資家」である。読者はこの肩書から、資本主義の本質を知り抜いた人物を想像することだろう。しかし残念ながら、投資家や資本家として成功した人物が、必ずしも経済や資本主義について正確に理解しているとは限らない。

原氏は「はじめに」で、本書の主張を簡潔に述べる。それは現在、世界を席巻しているという「株主資本主義」に代わり、「公益資本主義」という資本主義の新たなあり方を打ち立てることにある。

株主資本主義とは何か。一言でいえば、「会社は株主のもの」とする考え方だという。原氏によれば、株主資本主義では、会社の目的は株主の利益を上げること一点のみで、従業員や顧客の利益はないがしろにされる。これに対し公益資本主義とは、企業を構成する個々のステークホルダー(株主、従業員、取引先、顧客、地域社会、国、地球など)の立場に応じ、利益を公平に分配する仕組みだという。

原氏が考える、株主資本主義と公益資本主義の違いについて、もう少し詳しく見てみよう。原氏は第四章で、株主資本主義は株主と経営陣が利益を独占すると述べる。これはさきほど触れた、従業員や顧客の利益がないがしろにされるという主張と表裏一体である。

この考えはおかしい。株主が本当に自分の利益を増やしたければ、会社の利益を増やさなければならず、そのためには優れた人材を手厚い待遇(金銭的報酬とは限らない)で雇用し、優れた製品を安く顧客に提供しなければならない。そうであれば、従業員も顧客も得をする。つまり株主と従業員・顧客の利益は対立せず、ともに利益を得る。

一方、公益資本主義ではすべての「社中(ステークホルダー)」に利益を「公平に分配」しなければならないという。けれども分配が公平かどうか、誰がどうやって判断するのか、その具体的な説明はない。単純な均一配分では誰かから必ず不満が出るだろうし、かといって利益への貢献度で判定するのはもっと難しいだろう。組織として成り立つかどうか心もとない。

また原氏は、株主資本主義では短期の利益や株価上昇ばかりを追求すると述べ、こう続ける。「中長期の研究開発費を圧縮し、人件費を削って無理に利益を出させ、配当として吐き出すことを求めます」

これもよく耳にする俗論だが、正しくない。株主が本当に強欲なら、短期で小さな利益を手に入れて満足するのではなく、長期で大きな利益を求めるはずだ。

たしかに海外の買収ファンドなどが、厳しいコスト削減や増配の要求を突きつけるケースはある。けれども彼らがそうするのは、それが長期の利益拡大や経営効率の向上をもたらすと判断するからだ。株価は将来の利益を予測して動くものだから、短期の利益にしかつながらないと市場で評価されれば、たちまち下落し、投資家自身が損をしてしまう。

さらに原氏は、株主資本主義は目先の利益にとらわれるため、組織が硬直化し、変化への柔軟性を確保できないという。具体例として、一九七〇年代のオイルショックを機に消費者の関心が日本車など燃費の良い小型車に移っていたにもかかわらず、大型車から小型車への切り替えができず、衰退した米GM(ゼネラル・モーターズ)を挙げる。

けれども当時、日米自動車摩擦で米政府が日本に圧力をかけ、対米自動車輸出台数を制限する「自主規制」を強いた事実が示すように、GMをはじめビッグスリーと呼ばれる米自動車大手が衰退したのは、政府と癒着してその保護に甘んじ、市場競争を勝ち抜くための経営努力を怠ったからだ。

ビッグスリーの背後には全米自動車労組(UAW)という強力な労組が存在し、対日圧力を求めていた。つまり米自動車大手の衰退は、原氏にとっては皮肉なことに、政府や労組といったステークホルダーが会社を動かす公益資本主義のせいだったということになる。株主資本主義のせいではない。

原氏は、配当や自社株買いに熱心な米企業について「株主におもねっているだけで、これでは企業としていつまで存続できるのか心配になります」と批判し、社名を列挙する。IBM、マイクロソフト、ヒューレット・パッカード、プロクター&ギャンブル、ファイザー、タイム・ワーナー、ディズニーである(第二章)。それから四年たつが、これら米企業の多くは存続が危ぶまれるどころか、世界でますます存在感を増している。

もし原氏がいうように、日本企業が米国流の株主資本主義を模倣したせいで衰えたのなら、本家である米企業はもっと激しく没落しているはずだ。ところが実際には、日本企業だけが凋落している。ここから正しい教訓を導くとしたら、日本経済が衰退しているのは株主資本主義が過剰なためではなく、株主資本主義が足りないからと考えるしかない。

最後に、原氏が強調する、アメリカン航空のエピソード(第一章)について述べておく。2008年、経営不振に陥った同社は従業員に対して大幅な給与削減を求め、そのおかげで危機を脱することができた。経営陣はその功績によって多額のボーナスを受け取った。リストラに成功して経営を立て直したことが、株主から評価されたからだ。

原氏はこの事実について、株主資本主義が「現実からいかに乖離し、いかに倒錯しているか」を物語ると批判する。

しかし、もし原氏の考えに従い、危機脱出に成功しても満足する報酬を与えなければ、わざわざリストラを実行して嫌われ者になる経営者はいなくなる。しばらくはハッピーかもしれないが、いずれコスト高で破綻するしかない。そうなれば従業員すべてが路頭に迷うことになる。

経営者の判断がどれほど非情に見えようと、それは結果として会社を救うかもしれない。その場合は当然、米国なら米国、日本なら日本の相場に照らし、成果に見合う報酬が必要だろう。もし会社を救えなければ、その経営者は能力の劣った人物として市場から淘汰される。他人があれこれ口を出す必要はない。ましてや政府をステークホルダーとして取り込み、権力を使って身勝手な理想を押しつけようとするなど、傲慢でしかない。

原氏には『新しい資本主義』という著作もある。岸田首相のスローガンと関係があるかどうかは不明だが、日本に今必要なのは、こうした「ナントカ資本主義」のたぐいではなく、本来の自由な資本主義である。

<関連記事>