2021-02-21

石見銀山が支えたグローバル経済〜16世紀の東アジアと欧州をつなぐ

世界遺産石見銀山を歩く (歩く旅シリーズ 街道・古道)
世界遺産石見銀山を歩く (歩く旅シリーズ 街道・古道)

銀は、商品市場で最も活発に取引される貴金属のひとつだ。今年に入り、投稿型のオンライン掲示板「レディット」の書き込みをきっかけに、個人投資家のマネーが流入。国際指標のニューヨーク銀先物が一トロイオンス三〇ドル台と八年ぶりの高値を付けるなど、話題となっている。

銀はかつて金と並んで、通貨として広く使われていた。19世紀の米国で金鉱発見をきっかけに起こったゴールドラッシュは有名だが、それより三百年以上前、16世紀の日本を含む東アジアではゴールドラッシュならぬシルバーラッシュが起きていた。それは17世紀に入っても続く、長期にわたる経済現象だった。

シルバーラッシュが起こったきっかけは、16世紀前半に日本で銀山が発見され、その開発が本格的に進められたことによる。東アジアにおける銀の出現は、銀を国際通貨としていた東アジアの貿易構造に大きな影響を及ぼすことになる。日本で発見されたその銀山とは、石見(いわみ)銀山である。

石見銀山の遺跡は、島根県のほぼ中央に位置する大田市の山間部にあり、2007年に世界遺産に登録されたことで知られる。遺跡の大部分は森林に覆われ、豊かな自然環境が損なわれずに残されている。この点がとくに高く評価され、世界遺産の登録につながったとされる。

石見銀山の発見は1526年(大永6)のことと伝えられる。周防(山口)の戦国大名、大内義興が石見国守護のとき、筑前博多の商人、神屋寿禎(かみやじゅてい)が出雲の鷺銅山に銅を買い付けに行く途中、日本海の沖から南方に山が光るのを見て銀鉱脈の存在を覚ったという。

神屋寿禎は博多ではかなり名の知れた有力商人であるとともに、日明貿易を通じて西国一の大名である大内氏と深く結びついていた。近年の研究では、寿禎自身が発見者だったかどうかには疑問も呈されているが、博多商人の日本海沿岸における広域的な経済活動が石見銀山の発見・開発につながったのは間違いない(本多博之『天下統一とシルバーラッシュ』)。

石見銀山が発見された時代は、東アジアで急激に銀需要が高まる時期だった。とりわけ隣国中国では15世紀以降、銀経済の時代を迎え、土地税や官僚の給料、北方の遊牧民族への戦費に大量の銀が必要になっていた。寿禎ら博多商人は貿易を通じてそうした中国国内の銀事情を察知し、いち早く石見銀山の開発に乗り出したようだ。

採掘された銀鉱石は当初、銀山で製錬は行わず、高品位の鉱石のみを鞆ケ浦(ともがうら)などの港から博多へと送っていたという。やがて現地での製錬の必要性が高まり、1533年(天文2)、寿禎は宗丹・慶寿という二人の技術者を博多から連れてきて、灰吹法(はいふきほう)という銀製錬技術を導入する。

技術者の慶寿は、禅宗を日本に伝えたことで知られる栄西が建立した日本最初の禅宗寺院、博多の聖福寺にある幻住庵という塔頭(たっちゅう)にゆかりの人物だった。幻住庵は朝鮮や琉球との交易に深く関わった拠点とみられ、そのようなネットワークを介して灰吹法が日本へ伝わったと考えられている。

灰吹法は、当時の画期的な製錬技術だった。銀の含まれる鉱石に鉛などを混ぜて熱することで銀と鉛の合金を作り、それを灰に含ませると鉛だけが吸収されるため、銀を取り出すことができる。これによって純度が100%に近い銀を生産できるようになった。

この石見銀の品質の良さが大航海時代を主導していたポルトガルで評判となり、貿易商人が日本へ殺到するようになった。当時、銀山のあった地域は佐摩(さま)村と呼ばれていたことから、銀はポルトガル商人から「ソーマ(Soma)」と呼ばれた(川戸貴史『戦国大名の経済学』)。

採掘・製錬による銀生産が進む石見銀山では、鉱山およびその付近に銀山町が形成される。そこには京都・堺など畿内商人のほか、南九州、備中など瀬戸内地方から多数の商人が到来・居住しており、鉱山の経営や住人相手の商売に従事した。

領域支配者である大名や国人領主らは、一定の運上を納めさせることで商人の鉱山経営を認めた。運上分を除く生産銀は国内各地に流れていった。

当時の日本では、銀はまだ貨幣としては普及していなかった。しかし世界各地の市場では銀は国際通貨だったので、銀さえあれば世界中のあらゆるモノを買うことができた。そのため石見銀は貿易商人の手を介して日本から海外へ流出していった。明で後期倭寇による密貿易が一挙に拡大した背景にも、量産された石見の銀があった。

ポルトガルのアジア貿易は、はじめインド銀を資金に東南アジアで麝香(じゃこう)や香辛料を購入、それを中国へと持ち込んで絹・陶磁器などと交換し、欧州へと持ち帰った。しかし日本との交渉が本格化すると、しだいにポルトガルのアジア貿易は日本銀を軸として展開されるようになる。南米にポトシ銀山を擁するスペインと違い、自前で銀を産出できなかったポルトガルにとって、日本銀は注目の的だった。

中国で生糸を購入したポルトガルは、それを日本に持ち込んで銀と交換。その銀を資本として中国産の絹織物や陶磁器、東南アジアの香辛料を購入し、欧州で販売して巨額の富を得た。この時期、ポルトガル船が日本から持ち出した銀の量は年平均十五〜十八トンに及んだともいわれる。海洋国家ポルトガルを支えた経済力の背景には、日本銀の存在があった(『世界遺産石見銀山を歩く』)。

マルコ・ポーロが伝える「黄金の国ジパング」は、欧州を大航海に向かわせた原動力のひとつだといわれる。そのあこがれの地日本に、ポルトガルは到達した。しかし日本は黄金の国ではなく、むしろ「銀の国」だった。

イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは1552年(天文21)、インドのゴアにいる神父に宛てた書簡に「カスチリア(スペイン)人は、この島々をプラタレアス群島(銀の島)と呼んでいる」と述べている。

石見銀山に続き、1540年代にはペルーのポトシ銀山とメキシコのサカテカス銀山で銀が大量に掘り出された。太平洋を横断してマニラに運ばれた新大陸の銀と、日本の石見の銀が南・東シナ海で大量に流通する、シルバーラッシュの時代を迎える。

17世紀初頭、石見銀山の銀産量は年間四十トン弱に及び、当時の世界の銀産の三分の一を占めたといわれる。新大陸の銀が流入する以前の欧州の銀の年産量が約三十トンといわれるので、石見の銀産量の多さが理解できる。

明で産出された絹、陶磁器などが、ポルトガル人、スペイン人のルートをたどって欧州に運ばれ、東アジアでは銀産国の日本の銀も大量に流通した。16世紀から17世紀に、世界は銀によってひとつながりになった。

今は世界の国々がそれぞれ異なった通貨を使い、国境を越えた貿易にはさまざまな制限が課される。それに比べ、銀が世界の共通通貨だった当時は、ある意味でずっとグローバル化が進んだ、スケールの大きな経済の時代だったといえる。

<参考文献>
  • 本多博之『天下統一とシルバーラッシュ: 銀と戦国の流通革命』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館
  • 川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書
  • 仲野義文監修『世界遺産石見銀山を歩く』(歩く旅シリーズ 街道・古道)山と渓谷社
  • 宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房
  • 北村厚『教養のグローバル・ヒストリー: 大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房

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