2020-12-13

貿易禁止が生んだ密貿易集団「倭寇」〜アジアにネットワーク、鉄砲伝来にも一役

「商品が国境を越えなければ、兵士が越える」という西洋の格言がある。19世紀フランスのエコノミスト、フレデリック・バスティアの言葉ともいわれるが、実際は出所不明のようだ。いずれにせよ、その意味は重い。「貿易を禁じれば、国家間の対立が強まり、戦争になる」というのだから。


この格言を思わせる現象が、日本の戦国時代、東アジアの海に出現した。倭寇(わこう)である。

倭寇とは14世紀から16世紀にかけて、朝鮮・中国沿岸で密貿易を行ったり、物や人を略奪したりした武装集団を指す。活動の時期によって前期と後期に分かれる。

多種多様な民族構成


日本の南北朝動乱のさなかに現れた前期倭寇は、壱岐・対馬・北九州地域を根拠地に、おもに朝鮮半島で活動した。これに対し、戦国時代に出現した後期倭寇は、構成メンバーや活動地域がかなり異なっていた。

後期倭寇は圧倒的多数を占める中国人を核に、日本人や東南アジアの人々、さらにはアジアに進出してきたポルトガルをはじめとする欧州勢力を含む、多種多様な民族が加わり、中国南部で密貿易を行った。出現の背景となったのは、海禁政策と呼ばれる明の貿易規制である。

モンゴル族が支配する元と対抗するなかで成立した明は、漢族の文化を再興しようとした。その一環として農業の重視を打ち出す一方で、商業は邪魔だと考え、民間商人の私的な海外渡航と貿易を禁止した。これが海禁政策である。

しかし、自由な海外貿易を志向する広東、福建、浙江省など中国沿岸部の商人たちは、官憲の目を盗んで密貿易に手を染めるようになる。商品流通経済がかなり進んだ段階で、貿易規制を強行することは、初めから無理なことだった。

経済史学者の川戸貴史氏は「明の海禁政策による自由貿易の制限が、ハイリスク・ハイリターンを求める密貿易集団たる倭寇を生み出すことになった」(『戦国大名の経済学』)と指摘する。

取り締まり強化で凶暴化


後期倭寇は東アジア海域に独自の航路を開拓し、各地の貿易港を結ぶ密貿易のネットワークを築いていった。中国、日本、東南アジア諸国を包含するそのネットワークから膨大な利益を獲得した。彼らは国家や民族の「境界域」に生きる存在であり、「複数の地域、国家、民族を結びつけることで、活動した空間に繁栄をもたらした」と歴史学者の村井章介氏は述べる(『分裂から天下統一へ』)。

もちろん倭寇には平和な商取引の側面だけではなく、暴力の側面もあった。もともと密貿易は海上に船を出して平和的に行われたが、明政府はこれを犯罪として厳しく取り締まったため、密貿易者のほうもそれに抵抗して武装集団を結成するようになる。取り締まりが強化されるにつれて、かえって凶暴化していった。

こうして倭寇は、条件次第では殺戮をなりわいとし地域に惨害をもたらす海賊集団にもなった。したがって、「自由貿易を求めた新興商人」として手放しには評価できない。けれども凶暴化の背景には、貿易の禁止という理不尽な政策があったことを忘れてはならない。

後期倭寇の頭目の一人に、王直という人物がいる。商業の盛んな徽州(きしゅう)の出身。早くから任侠の徒に交わり、密貿易で巨万の富を築くが、1548年、拠点としていた双嶼(そうしょ、リャンポー)の密貿易基地が明の官憲によって壊滅し、難を逃れて日本の五島列島に本拠を移す。

やがて王直は、海の豪族である平戸藩主・松浦隆信の勧めを受け入れ、博多に近くて便がよい平戸島に二千人の部下を従え移住した。平戸湾を見下ろす地に唐風の豪華な居館を建て、王者さながらの生活を送り、つねに贅沢な緞子(どんす)を身につけていたという。

王直は博多や薩摩の日本人と密接な連絡をとっていたばかりでなく、大内義隆、大友宗麟などの有力大名とも交渉があった。三百人を乗せる大船で明の各地と交易し、平戸は密貿易の新拠点になっていく。日本やアジアの商人が集まったほか、のちにポルトガル船、英国船も入港する。

ポルトガル人を乗せた密貿易船


話はややさかのぼる。ポルトガル人を乗せた船が九州南方の種子島に漂着し、鉄砲を伝えたのは1543年とされるが、1542年などとする説もある。いずれにしても、この船はポルトガルの船ではなく、王直の所有するジャンク船だった。この密貿易船には百余人が乗り込み、王直自身もその中にいた。

王直が村役人と浜の砂で筆談したところでは、船客は「西南蛮種」(東南アジア方面から来た異人種)で、貿易のために来たという。その中の二人の長が鉄砲を持っていた。彼らが火薬と鉛弾を中に詰めて発射してみせると、光と雷のような轟音を発し、どんな的でも命中した。そこで領主の種子島時尭は大金を出して二挺を買い取った。よく知られる鉄砲伝来の経緯である。

その後、鉄砲は日本国内で製造されて急速に普及し、戦国時代の戦い方を一変させていく。日本の歴史に転機をもたらした鉄砲伝来は、倭寇の密貿易ネットワークによって可能になった。

のちに王直は、郷里の母と妻子を人質に取った明政府に投降し、殺された。2001年、五島列島の福江市(当時)の商工会議所が安徽省にある王直の荒れ果てた墓を整備し、日中友好の先駆者として顕彰碑を建てた。ところが2005年、南京師範大学の教員ら二名が墓碑の王直の名と顕彰碑の一部を削り取るという出来事があった。

保護主義への教訓


教師は、王直は日本の武士、商人と結託して、中国の沿海を荒らし回った漢奸(売国奴)であるからと自己の行為を説明し、中国のネットなどではそうした行為が愛国的として評価されたという。

歴史学者の宮崎正勝氏はこの出来事に触れつつ、倭寇についてこう述べる。

国法に反する「密貿易商人」というとらえ方は、東アジア交易の成長を歴史の前進とみなす歴史評価とは異なる見方であり、「倭寇」という呼称にも権力に抗する者はすべて「賊」と見なすという体制的な歴史観が投影されている。(『「海国」日本の歴史』)

ついに明政府は、弾圧では倭寇を抑えきれないことを悟り、1567年、二百年にわたって実施してきた海禁政策を放棄する。倭寇の元凶とされた日本を除き、海外への出航と貿易を許したのである。これにより、倭寇は終息する。

利益追求の平和的な手段である貿易を禁じれば、暴力的な手段である略奪や戦争をもたらす。倭寇の歴史は、保護主義に傾く現代の世界に教訓を投げかける。

<参考文献>
  • 村井章介『分裂から天下統一へ』(シリーズ日本中世史)岩波新書
  • 村井章介『なぜ、大航海時代に戦国の世は統一されたのか 富と野望の外交戦略』 (NHKさかのぼり日本史 外交篇)NHK出版
  • 川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書
  • 田中健夫『倭寇―海の歴史』講談社学術文庫
  • 池上裕子『戦国の群像』(日本の歴史)集英社
  • 岡田英弘他『紫禁城の栄光―明・清全史』講談社学術文庫
  • 宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房

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