評論家の藤原正彦は誇らしげにこう語る。「何しろ日本は聖徳太子の頃から民主国ですから。和をもって貴しとなす。独裁者を嫌い、独裁者がいたことのない、世界でも珍しい国です」(アサヒ芸能1月15日号)
独裁者がいたことのない国は米国、英国、スイス、北欧諸国など主要国だけでも数多いから藤原の主張はデタラメだが、それ以上に、和をもって貴しとなす精神を手放しで称えるのが問題である。和を何よりも貴ぶ心性は、力の強い相手には逆らわないほうがよいという事大主義につながりやすいからだ。
力の強い相手の最たるものは国家である。国家に決して逆らわず従う態度は国家主義である。国家主義は西洋にもある。しかし日本と違い、西洋には国家主義に抵抗する知的伝統が存在する。
そのことを和歌山大学教授の菊谷和宏は『「社会」のない国、日本』(講談社選書メチエ)で、ともに国家による冤罪であるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件を対比しながら論述する。
ドレフュス事件では、軍部が捏造したスパイの証拠によってユダヤ系陸軍大尉ドレフュスが軍法会議で有罪とされる。これに対し作家ゾラはドレフュスを擁護し、一時亡命を強いられながらも、再審の道を開く。
ゾラを衝き動かしたのは、「人間性が国の都合に優先されてはならない」「国家以前に尊重されるべきものがある」という信念だった。
このような信念を生んだものは何か。ゾラの同時代人である社会学者デュルケームによれば、それはキリスト教である。キリスト教が育んだ個人主義精神からみれば、国家という組織はそれがいかに重要であれ、「ひとつの道具に過ぎず、目的のための手段でしかない」。
さて一方、大逆事件では幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたとして根拠なく逮捕され、死刑を宣告され、処刑された。
ゾラのように立ち上がり、幸徳らを堂々と擁護する言論人はいなかった。幸徳らを乗せた囚人馬車を偶然目撃した永井荷風が「わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた」と記したのは有名である。
キリスト教の伝統をもつフランスと異なり、日本には「国家以前に尊重されるべきものがある」という思想は根づいていない。菊谷の言葉を借りれば、国家のみがあって社会が存在しない。
長い物に巻かれることをよしとする日本では、国家の暴走に歯止めをかける者がない。それは和を保つという長所を帳消しにしかねない、深刻な短所である。
(2015年6月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
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