2021-01-17

琉球王国の大交易時代〜壮大な貿易ルートの要、海洋アジアを結ぶ

在日米軍基地の7割が集中する沖縄県は、基地の集中で経済発展が制約を受けており、基地経済から脱却し、自立した沖縄をつくることは地元の大きな願いとなっている。

古琉球 海洋アジアの輝ける王国 (角川選書)

今後の産業の柱として、観光、IT(情報通信)などと並んで期待されているのは、貿易である。政府は同県に全国で唯一の特別自由貿易地域を設定するなど、支援に力を入れる。

けれども沖縄にはもともと、アジア各地とのスケールの大きな交易によって発展した古い歴史がある。

室町幕府の三代将軍、足利義満が中国と日明貿易(勘合貿易)を始めた15世紀初め、沖縄では北山、中山、南山の三勢力が争っていたが、1429年、首里の中山王が三山を統一し、明の冊封を受けて琉球王国を成立させた。ここから琉球は貿易立国の道を歩んでいく。

その際、大きな影響を及ぼしたのは、明帝国の対外政策である。明は民間人の対外交易と渡航を禁止する海禁政策を採り、認可を受けた国が朝貢のために派遣してきた使節との貿易(朝貢貿易)だけを認めた。日本では足利義満が日本国王に冊封され、倭寇(前期倭寇)の取り締まりを条件に勘合貿易に参加した。

明の三代皇帝、永楽帝はイスラム教徒の宦官、鄭和(ていわ)に命じて南海大遠征を実行させ、遠くはアラビア半島やアフリカ東海岸に及ぶ国々に対し、これからは中国と交易をしたいのであれば、必ず朝貢を行って冊封を受けるよう知らせ、承認させた。その結果、明への朝貢国は五十以上にのぼった。

ところが、明帝国のほうがこの体制を維持できなくなる。朝貢国の貢物に対する皇帝の返礼品(回賜)は、皇帝からの恩恵という意味があるために、貢物より多く与えるのが通例だった。朝貢国にとっては利益となるが、五十カ国以上の朝貢に対する回賜は、さすがに明の財政を圧迫した。

このため、永楽帝の没後、朝貢の制限回数が徐々に厳しくされていった。しかし朝貢が制限されれば交易も衰える。海禁・朝貢体制を放棄することなく、交易を維持するために、明が目をつけたのが琉球王国だった。

琉球は朝鮮と並んで明への模範的な朝貢国とされ、朝貢回数が多めに設定されていた。とくに琉球は明への最大の朝貢国であり、その回数は日本や朝鮮と比べてもケタ違いに多かった。明代の進貢回数は、琉球が一位で百七十一回。二位のベトナムが八十九回だから、断然群を抜いていた。六位のシャム(タイ)が七十三回、十位の朝鮮が三十回、十三位の日本は十九回にすぎない(高良倉吉『琉球王国』)。

明は、この琉球を中継交易国として育成しようと考えた。そのために異例の優遇措置を施す。

まず、三十隻もの大型ジャンク船を進貢船として無償で与えた。これは中古の軍艦の払い下げだった。琉球史研究家の上里隆史氏によると、中国が明朝の初期、倭寇対策として沿岸に多数の軍艦を配備していたため、琉球に無償提供できるだけの十分な軍艦があったという。

中古とはいえ、当時の中国の造船技術は世界一。前述のように、鄭和が大艦隊を率いてインドやアフリカまで遠征している。琉球は世界最高の技術で造られた中国式の船を活用することで、アジア各地への長距離航海を可能にした。

次に、明は交易活動に欠かせない職能者を琉球に居住させた。前述のように明は海禁政策で民間人の渡航を禁じていたから、その例外といえる。

那覇港近くの久米村に福建省から多数の中国人が移住し、居留区を形成した。琉球側の要請で技術指導のために訪れた人だけでなく、解禁を犯して移住した人々も多かったようだが、明が琉球にクレームをつけたという事実はあまりみられない。久米村人は「閩人(びんじん)三十六姓」と呼ばれた。閩は福建省の俗称である。

琉球側は久米村人を歓迎し、重く用いた。久米村人は技術先進国・中国の出身者だったから、彼らのノウハウは琉球の海外貿易にとって決定的な意味を持っていた。造船、船舶修理、航海術、通訳、外交文書作成、商取引方法、海外情報など、職能者としての彼らの技術・知識は海外貿易の経営上、なくてはならないものだった。

歴史学者の高良倉吉氏によると、進貢船に乗って諸国に派遣される使節団のうち、副団長クラスの人物や通訳官、貿易船を実際に操縦する主要スタッフの多くも、久米村人で占められる場合が多かったという。

こうして絹や陶磁器など多くの中国の物産が琉球に集まり、その中国商品を求めてアジア海洋諸国が琉球に押し寄せた。東シナ海の日本や朝鮮のみならず、南シナ海のアユタヤ朝、ルソン、マラッカ王国などの商船が那覇港をにぎわした。これらの諸国の物産は、琉球の朝貢品として進貢船に積み込まれ、福建の福州へと向かった。琉球王国は、15世紀の海洋ネットワークを結びつける要になった。

琉球の中継貿易は国営事業で、民間主体とはいいにくい。それでもなお、明への進貢品の買い付けという琉球船の目的はあくまで看板で、民間ベースの商取引が主流となりつつあった。その証拠に、琉球が東南アジアから買い付けた南海産品のすべてが、明への進貢にあてられたのではなかった。

たとえば当時、朝鮮に渡航した倭人勢力が携えた南海産品には、犀角(さいかく)、麒麟血(きりんけつ)、陳皮(ちんぴ)、丁香(ちょうこう)、草菓(そうか)、黄芩(おうごん)、霍香(かっこう)、蘇号油(そごうゆ)、蘇木(そぼく)などが含まれていた。これらはほぼ間違いなく、倭人勢力が琉球から入手したものだ。

また、琉球はシャムとの貿易取引で、いずれかの国の政府が権力を振り回すことを排除し、「四海一家」「両平(両者平等に利益があること)」をスローガンに、「市場価格での取引でこそ双方が潤う」と主張。シャムにこれを受け入れさせた(村井章介『古琉球』)。

琉球人は貿易ルートに乗り、アジア各地に訪れた。室町時代の水墨画家、雪舟が中国に留学中、スケッチしたといわれる「国々人物図巻」には、高麗人や天竺人などさまざまな民族とともに、琉球人が描かれている。ゆったりとした服にはだし、頭の左側に結ったまげに特徴がある。雪舟は中国に朝貢してきた琉球人と出会い、彼らの姿をスケッチしたのかもしれない。

琉球の大交易時代は、16世紀に入って明の密輸に対する取り締まりが緩み、密貿易商人が広範な交易を行うようになると一挙に衰退した。1609年、薩摩の島津氏の進攻を受け、薩摩藩に服属するようになる。

陸だけの面積でみれば、沖縄県は大阪府より若干大きいくらいだ。しかし島とその周りの海をひとつの「海域世界」としてとらえれば、沖縄諸島を含む南西諸島の範囲は、じつに東京から福岡あたりまでの広さに匹敵する。琉球王国はこの海域を統治する巨大な海洋国家であり、日本、明、朝鮮、南シナ海諸地域を結ぶ壮大な交易ネットワークの要でもあった。

アジアの経済が急速に発展する今こそ、沖縄が貿易立国としてかつての輝きを取り戻すチャンスだろう。

<参考文献>
  • 高良倉吉『琉球王国』岩波新書
  • 上里隆史『島人もびっくりオモシロ琉球・沖縄史』角川ソフィア文庫
  • 村井章介『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』角川選書
  • 北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』ミネルヴァ書房
  • 宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房

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