2019-04-07

悪政で自滅したローマ

前回述べたように、ローマ帝国の長期にわたる繁栄をもたらしたのは、市民生活に介入しない小さな政府だった。しかしその原則を踏み外し、政府の事業を過度に拡大したとき、衰退に向かい始める。それを統制によって取り繕うとして混乱をもたらし、かえって衰えに拍車をかけた。

ローマは蛮族の侵入によって滅んだとよく言われる。だが実際には、軍事・経済政策の誤りによって自滅したのである。

2人の皇帝に焦点を当て、ローマ衰亡の経緯をたどってみよう。

ローマ帝国の版図は、トラヤヌス帝(在位98〜117年)の治世に最大となる。まさに繁栄の絶頂だ。だがこのとき、すでに衰退の影は忍び寄っていた。

トラヤヌスといえば、最盛期のローマ帝国を統治した「五賢帝」の一人だ。けれども今から振り返ると、外政・内政ともその施策が賢明だったかどうか疑問が残る。


トラヤヌスは53年、スペイン南部のイタリカで生まれた。イタリア本土出身者でない、初の属州生まれの皇帝である。軍人として頭角を現し、中年となりゲルマニア(現ドイツ)で総督を務めていたとき、ネルウァ帝の養子として後継者に指名される。


即位すると、軍人の血が騒いだかのように大規模な遠征を志す。治世19年間の間に、ダキア(現ルーマニア)、メソポタミア、アルメニアなどが併合され、ローマ帝国の版図は最大になる。

ダキア戦争の模様は、首都ローマの一角に今も残るトラヤヌスの記念柱で、らせん状の浮き彫り絵巻に描かれている。長身で高貴な風貌のトラヤヌス帝が使者に接見し、作戦を練り、神々に犠牲を捧げ、敗者の降伏を許している。

だがトラヤヌスの栄光の陰で、本国を遠く離れた地で長年行う戦争には物的・人的資源の巨大な動員を必要とした。古い道路の修復、新しい道路の建設、橋の建設、新しい船の建造、大量の運搬用家畜と御者の動員、行軍中の兵士たちのための都市内の宿泊、特定の地点への莫大な量の食糧の集積、無数の武具と武器、衣類と靴を規則的に供給する設備——などである。

戦利品では、これら膨大な調達は賄えない。軍隊が必要とする物資は、おもにイタリアと属州双方での強制労役を含む徴発によって調達された。

しかもトラヤヌスはダキア戦争後、国民に恩賜品を与え、兵士たちに贈与金を給し、競技やその他の見世物を催すために、巨額の金を出費した。属州地にはティムカド(北アフリカ)、クサンテン(ゲルマニア)などの都市を築き、退役兵の植民活動を行わせた。

さらに重い負担となったのは、首都や諸属州における豪勢な建築に充てる出費だった。ローマ市には広大な「トラヤヌスの広場」を建設。それに先立ち大規模な公衆浴場も完成させている。先ほど触れた、ダキア戦争の様子を描いた高さ38メートルの記念柱も、この広場の西側に建てられた。

征服戦争で最大版図を獲得したトラヤヌスだが、やがて拡大の無理が表面化する。メソポタミア南部で反乱が生じ、パルティア人もアルメニアや北部メソポタミアに侵攻した。北アフリカやエジプトでもユダヤ人の反乱が深刻になる。

こうした中で健康を害したトラヤヌスは、遠征先から首都へ帰還することにしたが、ローマ市にたどり着く前、現在のトルコ南東部に当たる属州キリキアの小村セリヌで世を去った。

トラヤヌスの死から167年後、ディオクレティアヌス帝(在位284〜305年)が即位する。

当時、ローマでは軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期が続いていた。ほぼ半世紀、正式に公認されただけでも26人の皇帝が相次いで現れ、ほとんど短期間の統治のうちに殺害される。ディオクレティアヌスは軍人皇帝時代の混乱に決着をつけ、皇帝として絶大な権力を握る。

244年、バルカン半島のアドリア海沿岸にあるサロナ(現クロアチアのスプリト)近郊で生まれた。低い身分から軍人として身を起こし、カルス帝、ヌメリアヌス帝の親衛騎兵隊長となる。ヌメリアヌス帝の暗殺を受け、皇帝に擁立された。

即位すると、ローマ建国以来続いていた共和制の政治形式を払拭し、専制君主制を確立した。権威を強化するため、ひざまずきながら拝礼するオリエント風の謁見儀礼を臣下に要求し、皇帝は「ドミヌス(主人)」と呼ばれるようになる。

ディオクレティアヌス帝については、変革期にさまざまな改革を実行した指導者として高く評価する向きもある。しかし少なくともその経済政策をみる限り、五賢帝の一人と称えられたトラヤヌス帝同様、過大評価と言わざるをえない。

ディオクレティアヌスの経済政策として最も有名なのは、301年に発布された最高価格令だろう。

ローマ帝国では、膨れ上がる軍事費を捻出するために、2世紀以降、銀貨1枚に含まれる銀の量を徐々に減らし、その分で銀貨を大量発行するという安易な策を続けた結果、3世紀後半には通貨の信用が失われ、物価の高騰が止まらなくなった。

現代風に言えば「インフレ税」である。通貨を保有する市民からすれば、通貨の価値が落ちる分、見えない形で政府から税金を取られることになる。

そこでディオクレティアヌスは最高価格令で物やサービスの価格に上限を定め、物価を抑え込もうとした。6.5キログラムの小麦と大麦はそれぞれ100デナリウスと60デナリウス、327グラムの豚肉、牛肉、塩漬けの魚は順に12デナリウス、8デナリウス、7デナリウスといった具合である。平民的な庶民である大工、パン職人の日当上限はいずれも1日につき50デナリウスだった。違反者は死刑である。

しかし、結果は失敗だった。安い公定価格で売っては利益が出ないので、生産者や商人が商品を市場に出さなくなってしまったからである。社会は品不足に陥る。

公式の市場に出さない代わりに、闇市場で売る業者はいた。当然、公定価格を上回る値段である。物資を求める群衆が押しかけて店を打ち壊し、業者が死亡することもあったという。

結局、発布から4年後、ディオクレティアヌスが退位すると、最高価格令は事実上の空文と化す。強権による統制は、いたずらに経済・社会を混乱させただけに終わった。

西洋古代史の大家、M・ロストフツェフは価格統制令について、その教訓をこう述べる。

「間違いなく大きな害を与え、恐るべき流血をひきおこし、そのくせ何の救いももたらさなかった。ディオクレティアヌスは、国家の全能性に対する古代世界の有害な信念をわけもっていたのであった。これは、多くの近代の理論家たちが、いまなお彼や古代世界とともにもち続けている信念である」(『ローマ帝国社会経済史』下巻)

国家は全能であり、経済の混乱や衰退は国家の統制によって乗り切れるという思い込みは、今なお根強い。それでは、経済の道理に無知だった古代ローマの皇帝たちと同じ過ちを繰り返すことになるだろう。

<参考文献>
南川高志『ローマ五賢帝 「輝ける世紀」の虚像と実像』講談社学術文庫
本村凌二『ローマ帝国 人物列伝』祥伝社新書
樋脇博敏『古代ローマの生活』角川ソフィア文庫
M・ロストフツェフ、坂口明訳『ローマ帝国社会経済史』(上下巻)東洋経済新報社
Robert L. Schuettinger and Eamonn F. Butler, Forty Centuries of Wage and Price Controls: How Not to Fight Inflation, Ludwig von Mises Institute.

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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