2024-06-16

第一次世界大戦の悲劇

「するとたちまち恐ろしい唸り声とともにぴかっと光った。この掩壕(えんごう)は一発の命中弾を食って、あらゆる隙間がばりばりっと音を立てた。〔略〕あらゆる金属性の恐るべき音響を発して、壁は震え、武器も鉄兜も地面も泥も塵も、ことごとく飛散した。硫黄の匂いを含んだもうもうたる烟(けむり)が、遠慮なしに侵入してきた」

西部戦線異状なし (新潮文庫)

ドイツの作家レマルクの小説『西部戦線異状なし』(秦豊吉訳)の一節である。第一次世界大戦に出征したレマルクはその体験をもとにこの作品を執筆した。未曾有の大量殺戮に戦慄する兵士たちの姿を生々しく描き、世界的反響を巻き起こした。

第一次世界大戦は1914年から1918年まで独墺陣営(同盟国)と英仏露陣営(協商国・連合国)との間で戦われた、史上初の世界戦争である。

戦争は長期化し、甚大な被害をもたらす。19世紀のおもな戦争の戦死者数がナポレオン戦争198万人、南北戦争62万人、普仏戦争18万人だったのに対し、第一次世界大戦は855万人にも達した。

死傷者数が膨大な数にのぼった一因は、毒ガス、戦車、軍用飛行機、軽機関銃などの新兵器の投入である。『西部戦線異状なし』で主人公のドイツ人兵士ボイメルは毒ガスについてこう語る。

「僕は野戦病院で、恐ろしい有様を見て知っている。それは毒ガスに犯された兵士が、朝から晩まで絞め殺されるような苦しみをしながら、焼けただれた肺が、少しずつ崩れてゆく有様だ」

戦争が世界規模に拡大した背景には、各地で激化していた列強の植民地を巡る利害対立があった。なかでもバルカン半島におけるオスマン帝国の領土の奪い合いが大戦の思わぬ火種となった。

1914年6月、バルカン半島にあるボスニアの州都サラエボでセルビア人青年が放った銃弾により、オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が殺害された。オーストリアは同盟国ドイツの軍事協力の約束を取り付けてのち、7月にセルビアに宣戦布告し、オーストリア・セルビア戦争が勃発する。

当事者のオーストリアもセルビアも、それらの同盟相手のドイツもロシアも、この戦争はボスニアを巡る局地戦争にすぎず、それがまさか世界大戦と呼ばれるような大戦争に発展するとは、誰も思っていなかった。しかし実際には軍事同盟を介してロシア、ドイツ、フランス、英国が次々と参戦し、バルカンの局地戦争は一カ月の間に全欧州の戦争へと拡大していった(北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー』)。

軍事同盟は平和の維持が目的とされるけれども、第一次世界大戦勃発の経緯に鑑みれば、むしろ戦争を引き起こすリスクもあることを忘れてはならないだろう。

参戦国の多くは開戦後まもなく、兵器、弾薬、その他軍需品の不足に直面し、長期戦を見据えた戦時生産体制に移行する。

ドイツは英国による経済封鎖で海外からの工業原料が途絶する事態に備え、陸軍省に戦時原料局を設置し、大手電機会社AEGの社主ラーテナウにその運営を委託した。最初は金属原料から始まった統制は、やがてほとんどの産業分野に及んだ。ドイツの戦時統制経済は戦後、ソ連の社会主義建設や日本の高度国防国家のモデルとされた。

英国は敵国ドイツ同様、経済に対する政府の介入を加速させる。軍需省を新設し、社会政策推進で国民に人気のあったロイド・ジョージを大臣に任命した。ロイド・ジョージは要所に経済人を登用し、軍需生産のテコ入れを図った。英国の経済介入体制は戦後の福祉国家の原型となる。

フランスではポアンカレ大統領が開戦直後の教書で、国土防衛のための「ユニオン・サクレ(神聖なる団結)」を提唱した。フランス国民は戦争は短期終結するだろうとの予測の下、個人の権利の制約を受け入れ、国家に大きな権限を与えた(板谷敏彦『日本人のための第一次世界大戦史』)。

第一次世界大戦が起こる前、世界経済はおおむね自由主義が主流で、政府が経済に積極的に介入することは少なかった。それが大戦によって大きく変容していった。ある意味で、自由主義以前の重商主義の時代に逆戻りしたとも言えるだろう。

一般民衆の間にも戦争の影響は広く及んだ。参戦国の多くで、それまで反戦平和を唱えていた労働組合や社会主義政党も戦争協力に転じ、挙国一致体制が成立した。また植民地を含めて総力戦体制が構築され、戦闘員と民間人との境界線があいまいになった結果、民間人を巻き込む都市爆撃が行われるようになった。

生産体制の強化とともに参戦国の課題となったのは、戦費の調達である。

戦時財政の規模はどの国でも巨額に上った。ドイツの場合、大戦勃発直前の1913年の政府の税収23億マルクに対し、敗戦時の戦費負担は総額1550億マルクになっていた。連邦制をとるドイツは中央政府の課税能力に限界があり、戦費中の租税充当分はわずか3%にすぎない。不足分は国債・公債発行で調達するしかなかった。英国などの妨害や米国世論の反独傾向から国外での発行は成功せず、ほとんどが国内での発行となった。

一方、英国は早くから増税で対応した。労働者など低所得者に配慮して中・高所得者の所得税率を引き上げ、さらに高額所得者には別途、特別税を課して社会的不公平感の高まりを和らげた。その結果、戦費の26%を税収で賄い、この比率は参戦国中で最も高かった。

フランスは戦争前半は短期信用で、後半になって公債、増税による調達も併用した。ロシアはほぼ全額を英仏の同盟国で、さらに米国でも調達した。

いずれにせよ、租税で支えられるのは戦費の一部にすぎず、大部分はいわば借金で賄った。各国とも最初は短期戦だろうと期待したことと、その後は「勝ったら敵に払わせる」ことを前提にしたからだ。それが、勝つまでは戦争を続けなければならないという決意を固めさせ、戦争を長引かせる要因の一つになった(木村靖二『第一次世界大戦』)。

ドイツの哲学者カントは著書『永遠平和のために』で軍事国債の禁止を唱えた。国債の発行によって戦争の遂行が容易になり、平和実現にとって大きな障害になると考えたからだ。しかし第一次世界大戦で列強の政治指導者たちはカントの警告を無視して戦費を国債に頼り、その結果、甚大な戦禍を引き起こし、人々を苦しめた。

第一次世界大戦が起こるまでは、ある仕組みによって政府の借金に一定の歯止めがかかっていた。金本位制だ。

金本位制では金が本来の通貨とされ、政府通貨は一定の重さの金を裏付けとしなければならない。このため政府は保有する金の量以上に通貨を発行することができなかった。金本位制を維持したままでは、政府通貨を大量に発行し、それによって自ら国債を買い取って戦費を調達することができなかった。

そこで各国は大戦が始まると、相次いで金本位制を停止した。その結果、各国は財政上の歯止めから解放され、国債で多額の戦費を賄い、それが戦争の長期化と被害の拡大につながっていった。もし金本位制が維持されていたら、戦争はもっと早く終わり、人的・物的被害も少なく済んだかもしれない。

『西部戦線異状なし』の主人公ボイメルは「なぜだ、なぜ戦争を止めないんだ」と悲痛に叫び、ある日戦死する。しかし司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と記すだけだった。

国家の利益を巡る対立が一般国民を巻き込み、多数の命を消耗品のように奪った第一次世界大戦の悲劇。それが経済・社会にもたらした負の影響は戦後も続き、やがてもう一つの大戦につながっていく。

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