2023-02-20

ベトナム戦争とテロの口実

作家、ジェームズ・ボバード
(2023年2月16日)

2001年9月11日の米同時テロ以来、テロは米国の政治エリートにとって究極の権利獲得手段となった。米国人に対する不法なスパイ行為であれ、ソマリアの反体制派を粉々に吹き飛ばすことであれ、テロリズムを持ち出せば、ワシントンの政策立案者にとって必要なすべての隠れ蓑が提供される。しかし、政治家にテロとの戦いの白紙委任状を与えることがもたらす悲惨な結果は、およそ60年前には否定できなかったはずである。
1960年代には、テロは共産主義者のやることだった。反テロの道徳的熱狂とイデオロギーの盲点が、米国を第二次世界大戦以来、最大の外交政策の失策に追い込んだ。

第二次世界大戦後、フランス外人部隊はベトナムの再征服に奮闘していたが、米政府は常にストーリーを誇張し、共産主義者の反対勢力を悪者扱いしていた。1952年、サイゴンの広場に仕掛けられた巨大爆弾の材料を提供したのは、米中央情報局(CIA)の諜報員であった。ライフ誌のカメラマンが現場に待機し、撮影した写真にベトミン(ベトナム独立同盟会)共産主義者の仕業とキャプションを付けて掲載した。ニューヨーク・タイムズ紙は「赤軍の時限爆弾がサイゴンの中心部を襲う」という見出しで報じた。この爆破は「革命テロの長い歴史の中で、最も壮大で破壊的な一つの事件」であり、「この地のベトミンの工作員」によるものだと宣伝された。報道は、共産主義者と戦うフランス軍への米政府の援助に対する国民の支持を高めた。CIAの協力者であるベトナムの軍閥、チン・ミン・チー将軍は、爆弾は自分の手柄だと主張したが、米国のメディアはその発言を無視した。

1954年のフランスの敗戦を受け、ベトナムには米国の軍事顧問団が押し寄せた。1961年、ケネディ大統領はこう宣言した。「今、我々の力を信用させることが問題になっているが、ベトナムはその場所だ」。ケネディ政権はベトナム政策に関して、米国人と議会を深く欺くことで信頼を高めようとしたのである。ケネディ政権は、1954年にフランスとベトナム共産主義者の間で結ばれたジュネーブ平和条約で定められた米国人軍事顧問の数の制限を破った。また南ベトナムに駐留する米軍部隊の数が増え、戦闘が活発になりつつあるときに、顧問という誤った表示で米国人を欺いた。

米政府は、ゴ・ディン・ジエム率いる南ベトナム政府を腐敗、圧政、無能とみなしていた。1963年5月8日、南ベトナムのフエ市で起きた大惨事をペンタゴン文書(米国防総省の秘密文書)はこう伝えている。「政府軍が仏教徒のデモに発砲し、9人が死亡、14人が負傷した。この事件は、全国的な仏教徒の抗議行動を引き起こし、ディエム政権に対する国民の信頼の危機を招いた。(南ベトナム政府は)この事件は(ベトコン=南ベトナム解放民族戦線=の)テロ行為だと主張している」

ジエム政権は、仏教徒がカトリック教徒との法的平等と仏教旗の掲揚を要求したことに激怒した。1963年8月、ペンタゴン文書によると、南ベトナムの特殊部隊は「国中の仏教の仏塔に対して真夜中の襲撃を行った。僧侶を中心に1400人以上が逮捕され、その多くが殴打された」という。CIAはこの特殊部隊を資金援助していた。特殊部隊はベトコンや北ベトナムに対する秘密作戦に使われるはずであり、宗教弾圧のために使われるのではなかった。ディエムの仏教徒に対するテロは、米国を動かしてクーデターを支援させ、ジエムは数カ月後に暗殺された。

米ジョンソン政権は、テロリストというレッテルを利用して米国人を動かし、米国のベトナムへの関与拡大を支持させた。1964年5月18日、ベトナムへの追加資金を求める議会への特別メッセージで、ジョンソン政権はこう宣言した。「ベトコンゲリラは北の共産主義者の命令を受けて、南ベトナムの平和な人々に対するテロ行為を激化している。このテロ行為の激化には、さらなる対応が必要だ」。ジョンソンは、フランスのドゴール大統領が提案した、拡大するベトナム紛争に関するジュネーブ会議を軽蔑していた。ドゴール大統領が提案したジュネーブ会議が「恐怖の批准」になると断じたからだ。1964年6月23日の記者会見で、ジョンソンは「我々の目的は平和である。南ベトナムにいる私たちの仲間は、テロから人々を守るために協力している」と述べた。

米国の政策立案者は、空爆を行う口実を求めていた。1964年5月15日、ヘンリー・キャボット・ロッジ米大使は、南ベトナム空軍が「北ベトナムの特定の目標」を攻撃する計画を、「北ベトナムによる事前の適度な規模のテロ行為」の後に慎重にタイミングを合わせて提案したことが、ペンタゴン文書で明らかになった。

ペンタゴン文書によると、米国は当時すでに北ベトナムに対し「無差別爆撃」を展開していた。「情報収集のための北ベトナム市民の誘拐、破壊工作や心理戦チームの北への降下、海からの鉄道や高速道路の橋の爆破、PTボート(哨戒魚雷艇)による北ベトナム沿岸施設に対する砲撃」などだ。米軍機を操縦するタイ人パイロットが北ベトナムの村を爆撃したり、空爆したりした。しかしジョンソン政権は、米国が挑発行為を行っていることを否定した。

ジョンソンは選挙戦を盛り上げるために、すでに北ベトナムへの攻撃を決定していたのだ。1964年8月2日、駆逐艦マドックスは北ベトナム沿岸で北ベトナム船に発砲した。その2日後、マドックスは北ベトナムのPTボートから攻撃を受けていることを報告した。その数時間後、マドックスの艦長はワシントンに、艦への攻撃は誇張されたものであると電報を打った。「戦闘全体が多くの疑念を残す」。しかしマドックス号の第一報は、ジョンソンがテレビで北ベトナムへの即時「報復」空爆を命じたことを発表するのに必要なものだった。ジョンソン大統領は、北ベトナムを攻撃する無制限の権限を与える決議案を議会で可決した。この決議文は数カ月前に作成され、政権はそれを発表するタイミングを待っていた。

1965年に米国の関与が急速に拡大した当時、ベトコンと南ベトナム政府の両方が人々を恐怖に陥れていた。しかし米政府はベトコンのテロ行為だけを取り上げて、戦争終結前にベトコンや北ベトナム軍よりもはるかに多くの民間人を殺した自国の空爆作戦を正当化しようとした。

米国のメディアは、米政府がベトナム戦争の激化を正当化するために作り出したテロリストの物語を延々と繰り返した。カリフォルニア大学のダニエル・ハリン教授はこう述べる。「民間人に対するテロというテーマは、テレビの描く敵のイメージの中心であった。……北ベトナムに関するテレビ報道は......政治をほとんど排除して、テロに焦点を当てた。米国のメディアも、米軍によるベトナム市民への攻撃をほとんど完全に無視した」

ベトナム戦争を引き起こした政治的陰謀は、米国人に、支配者が唱えるいかなる救済の使命にも注意を払うよう思い起こさせる。米政府は、秘密裏に介入して外国に破壊をもたらした後、つねに無実の傍観者であると主張している。罪のない人々を虐殺する悪の政府や悪の勢力には事欠かない。しかし外国の残虐行為は、現実であろうと想像であろうと、米政府を信用する理由にはならない。

The Forgotten Terrorist Pretext of the Vietnam War | The Libertarian Institute [LINK]

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