2022-09-25

君主は国家の下僕

ミーゼス研究所編集主任、ライアン・マクメイケン
(2022年9月9日)

今日の君主制は、16世紀から17世紀にかけて国家が台頭する以前に存在した君主制と混同されるべきではない。

国家が誕生する前の君主は、基本的に私的な土地所有者であり、その収入は私有地から徴収する地代に大きく依存していた。地代は必ずしも金銭の形で徴収されたわけではなく、また金銭が不足することもしばしばあった。地主たちは、自分の土地を利用する人々から、農作物や兵役などの現物支給という形で資源を徴収していた。強制手段を独占する「主権」機関が存在せず、基本的に私法制度であった。「公権力が私人の手に渡り、軍隊の重要な部分が私的な契約によって確保される」体制である。

17世紀になると、君主は巨大な常備軍を育て、火薬を動力とする新兵器に耐えうる巨大な軍事施設を建設するようになった。個人で軍隊を率いる時代はとっくに終わっていたのである。この新しい官僚制の中心的な重要性は、馬に乗って戦う君主から、スペインのフェリペ2世のように「書類の山に囲まれた机で一日を過ごす」君主への進化がよく示しているのかもしれない。

国家が大きくなれば、それを管理するための書類の山も大きくなる。しかし、やがて国家は君主を圧倒するようになる。歴史学者マーチン・ファン・クレフェルトによれば、15世紀の終わりには、支配者とその臣下はすでに、国家の中に君主とは別の機械が存在するということを意識し始めていたのだという。王はもはや自分の私有地を管理することは許されない。これは、個人的支配から公権力への質的転換であった。別の言い方をすれば、私的な地主から国家の代理人への移行と表現できるかもしれない。

18世紀末には、国家は「もはや支配者の個人と同一ではなくなっていた」とファン・クレフェルトは指摘する。「国家は、君主を絶対的な支配者にするための道具から発展し、それ自身の生命を獲得した」

偶然ではないのだが、このことはおそらく、その時代に最も強力な国家を擁した王国で最も顕著になった。英国とフランスである。たとえば英国では、内戦で革命家が王の首を切っただけでなく、君主制を完全に廃止した。これは暴徒の仕業ではなく、英国国家の代表である議会の同意のもとに行われた。つまり、議会が代表すると言っている「人民」こそが「国」を定義するのだと、議会派は明確にしたのである。国王の役割は、ある種のサービスを提供することである。結局、議会は王政復古を行ったが、教訓は生かされた。1688年、再び議会が介入し、国王を議会の意向に沿った別の国王に交代させたのである。

フランスでは、革命家たちが同じ主題を発展させた。革命に先立つ数十年間、ルイ14世は、欧州で最も大きく、裕福で、強力な国家を作るために長い年月を費やした。そして、その国家の道具が、ルイ14世自身の王朝に対して向けられたのである。ルイは死の床でこうつぶやいた。「私は去るが、国家はいつまでも残るだろう」。 子孫のルイ16世も、断頭台で同じことを言ったかもしれない。

これら危機の後、英国も英国国家も、国王やその王朝の所有物ではないことが明らかになった。フランスの王政の残骸も同様だった。実際、欧州中の君主制国家は、同じような状況に陥っていた。君主制が民主共和制に取って代わられる数十年前の出来事である。そのころ、王権はすでに名目上、さまざまなタイプの国家体制に取って代わられていたのである。

今日、欧州の多くの国は、制度的な君主制を容認している。これら王室の男女は、しばしば戦争の応援団となる。あるいは、スペインのフェリペ国王がカタルーニャの分離独立派を非難するために介入したように、敵に対して国家をあからさまに支援するために利用されることもある。ナショナリストはしばしば君主を「国民統合」の象徴として称賛する。しかし、そこには王朝支配の時代に君主が自らをどのような存在とみなしていたかの痕跡はない。それは何世紀も前に消滅している。

(次より抄訳)
How Monarchs Became Servants of the State | Mises Wire [LINK]

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