2021-03-28

大澤真幸・國分功一郎『コロナ時代の哲学』

コロナ時代の哲学

社会主義革命のチャンス?


マルクス主義の教理の一つに、恐慌待望論がある。経済恐慌が起こると、それに伴う社会の混乱に乗じて、資本家の搾取に苦しんできた労働者が革命を起こし、社会主義を打ち立てる。だから革命のチャンスである恐慌の到来を待ち望むというものだ。

1857年、米国発の恐慌が英国に波及すると、マルクスの盟友エンゲルスは、いよいよ革命が近いと期待し、株価の急落するロンドンの取引所にうきうきして通ったという

本書の目玉である対談で開陳されるのは、マルクス主義の影響が色濃い、ゆがんだ危機待望論だ。著名な論客二人は、あけすけに、あるいは遠慮がちに、新型コロナウイルス感染拡大を奇貨とした社会主義革命への期待を語る。

対談の冒頭、大澤真幸は「現在、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大によって、日本を含む世界が未曾有の危機に晒されています」との認識を示す。

しかし、国内の死亡者は累計で九千人に近づいたが、インフルエンザでも例年三千〜四千人が亡くなり、関連死も含めると一万人に及ぶとされる。しかもコロナによる死亡者の八割近くが七十歳以上の高齢者で、二十歳代の死者は三人、十九歳以下の死亡者は一人もいない(鳥巣徹『コロナ自粛の大罪』および東洋経済オンラインによる)。

この事実に照らせば、コロナが「未曾有の危機」だという、政府の公式見解をなぞったような認識はそもそも疑問だ。けれどもここは目をつぶって、話を進めよう。

相手の國分功一郎の発言は当初、悪くない。コロナをきっかけに世の中に広まった、疫学的なものの見方は「非常に非人間的」だと警鐘を鳴らす。なぜなら「一人ひとりの人間を単なる駒と見なして、駒同士が会わないようにする、病状が悪化したら隔離することを原則とする」からだ。

ところが大澤は、せっかく國分が提示したコロナ政策の非人間性という論点を深掘りしようとせず、あらぬ方向に議論を誘導する。「世界共和国」の夢だ。

ウイルスは国境を越えて拡大するので、「自分の国だけでは解決できない、自分の国だけの解決はナンセンス」と大澤は強調する。そのうえで、コロナ危機は「世界共和国への最初の一歩」になりうると述べる。

世界共和国などつくらず、政府間の連携で十分な気もするが、これもよしとしよう。その世界共和国とは、いかなる政治経済体制になるのか。もちろん、社会主義だ。

大澤は「どんな政府も、この問題〔コロナ問題〕に対してギリギリの手を打ち続ける必要がある。そうしていく中で、気がついたら世界がすっかり変わってしまったということもあるかもしれない」と述べる。その先例として、2008年のリーマン・ショックを挙げる。

当時、経済危機を救うためとして、ゼネラル・モーターズ(GM)などの大企業や銀行に多額の公的資金が投入された。「あれほどの公的資金によって倒産を免れたということになると、大企業や銀行は、ある意味で、国有化されたに等しいわけです。国有化は、しかし、社会主義体制のやり方ではないですか」

国有化は社会主義のやり方だという大澤の指摘は正しい。しかし正しくないことが二点ある。ひとつは大澤が続けて述べた、「資本主義が延命するために、社会主義的な手法を使わざるをえなかった」という見方だ。社会主義的な手法を大々的に導入してしまったら、それはもう資本主義ではない。半社会主義とでも呼ぶべき代物だ。

正確には、米国経済はすでにリーマン・ショックの前から、政府・中央銀行と大企業・大銀行が癒着した半社会主義(縁故主義ともいう)に変質していた。リーマン・ショックはその弊害が露呈したものだ。政府と親しい企業・銀行に対する公的資金投入は縁故主義では当然の選択であり、それは資本主義の延命ではなく、縁故主義の肥大にすぎない。

大澤のもうひとつの誤りは、社会主義が資本主義に代替可能な経済体制だと楽観的に考えている点だ。それは大澤が次に述べる、ベーシックインカムに関する議論ではっきりする。

今、世界中の政府が国民に給付金を配布している。日本も一回の十万円では済まず、同じような給付を何回も、かなり長期間継続せざるをえないだろう。実質的にはベーシックインカムに近いものになる。そのアイデアを徹底させていくと、「能力に応じて貢献し、必要に応じて取る」というコミュニズム(共産主義)のスローガンに近づく。危機に対応した事実上のベーシックインカム導入により、資本主義の基本的なルールが否定されることになる。

「気づいたら『無意識の革命』が起きていた、ということがあるかもしれない」と大澤は話し、さらに一歩進めて、「無意識の世界同時革命になるかもしれません」と夢を膨らませる。

コロナが社会に良い変化をもたらすという考えには倫理的に抵抗していた國分も、大澤の怪気炎に気圧されてか、やがて「自分は、もしかしたら単に世論におびえていただけじゃないか」と頼りないことを言い出す。そしてコロナ対策として押しつけられた時短営業や外食自粛について、こんな告白をする。

実を言うと、夜の八時ぐらいには店がすべて閉まって暗くなっている街を見たとき、どこか痛快な気持ちがあったんです。これでいいじゃないか、なぜ夜遅くまで働かなければならないのか、って。

ベーシックインカムを十分配れば、「能力に応じて貢献し、必要に応じて取る」共産主義を実現させれば、誰も夜遅くまであくせく働かずに済むのに、と國分も大澤も言いたいのだろう。もし実現したら、すばらしい楽園に違いない。

けれども、それは実現不可能なユートピアだ。金をどれだけ大量に発行し配っても、社会は豊かにならない。金は食べることも着ることもできないからだ。社会が豊かになるには、品質が良く手頃で多彩な商品・サービスの生産を増やさなければならない。それが資本主義でなければ無理なことは、ソ連など旧社会主義国における市民生活の窮乏が示している。

ソ連崩壊から三十年になろうという今なお、知識人の多くが社会主義への幻想を手放さない。その哲学の貧困にはあきれるばかりだ。それに対し一般の人々は、理不尽な経済統制に苦しみながらも、起業家の助けを得て、乗り切る道を見つけていくだろう。市場経済の強靭な対応力は、この一年で誰もが目にしたところだ。

ちなみに、冒頭で触れた1857年の恐慌に続いて革命は起こらず、マルクスとエンゲルスを落胆させた。資本主義の自律的な回復力で、経済が再び成長に向かったからだ。コロナ時代の希望もまた、資本主義にある。

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