2021-02-28

織田信長、市場原理に敗れたり〜失敗に終わったマネーの規制

戦国大名の経済学 (講談社現代新書)
戦国大名の経済学 (講談社現代新書)

NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場した織田信長といえば、権威や因習に囚われない革新性の一方、力づくでも相手をねじ伏せ、言うことを聞かせようとする強引な人物のイメージが強い。古くから王城(皇居)鎮護の霊場として絶大な信仰を集めた比叡山をも恐れず、焼き討ちしたことは、信長のこの二面性を象徴する出来事だ。

ところがそんな信長にも、思い通りにならないものがあった。貨幣(お金)だ。

近代以前の日本では、金属製の、円形で中央に四角い穴のある塊が銭(せん、ぜに)と呼ばれ、貨幣として使われた。金貨、銀貨が素材を基準とする語であるのに対し、銭(銭貨)は形状を基準とする語だ。中世の銭はほぼ純銅でできていた。貨幣単位は「文(もん)」である。

銭は原則として、すべて一枚で一文として使う建前だった。しかし銭の品質には物によって違いがあった。このため貨幣のやり取りにあたり、品質の良い銭(良銭)を選び取る行為が広がった。これを撰銭(えりぜに)という。撰銭を禁止するために幕府、大名、社寺などが発した法令を撰銭令と呼ぶ。

信長は1568年(永禄11)9月、暗殺された前将軍足利義輝の弟、足利義昭を立てて京都に入り、占領した。翌年2月28日、信長は貨幣史において重要な銭に関する法令を京都に発布する。信長による撰銭令である。おもな趣旨は次の三つだ。

  • ①品質の良い銭(精銭)と悪い銭(増銭)の換算比を定める。たとえば、焼け銭は二枚で一文、大きな欠損がある銭や摩耗銭は五枚で一文、打平(無文銭)は十枚で一文など。これら以外は精銭(一枚で一文)とする。
  • ②納税や金銀、唐物(中国からの輸入品)、絹布、質物、穀物などの商売ではその時の相場に従い、①の規定に基づいて銭で支払う。銭を受け取る側は、勝手な銭の選別で価格をつり上げてはならない。
  • ③銭を受け渡すときは、精銭と増銭とを半分ずつ取り合わせること。

まず①は、品質の良い銭と悪い銭の換算比を公示した日本で初めての立法である。もっとも、内容は市場の実情を追認したにすぎない。

大きな特徴として、無文銭を十分の一文として通用を許している。それまで室町幕府や大名らが無文銭の通用を禁じてきたのと対照的だ。背景には銭の不足があった。16世紀半ば、中国が海禁政策を一部緩和したことで、日本との密貿易に関わっていた倭寇の多くは東南アジアへの合法的貿易にシフトし、日本への銭の流入が大きく減少した。

次に②のうち、各種の商品価格、とくに五穀の価格を上げるな、という規定は、買い手の購買力を保護している。保護する対象のひとつとみられるのは、信長が京都を占領するにあたり、これに従った軍隊だ。兵たちが携えた銭には品質の悪いものも多かった。

そして③では、取引額のすべてを品質の悪い銭だけで支払うことを禁じ、品質の良い銭を半分含めるよう命じている。

信長の以上の撰銭令は、銭の価値をいくつかに分類して示すなど先例にない特徴があり、強い意欲をもって発されたらしい。法令違反に対しかなり細かい金額の過料まで規定されていることから、ごく庶民的な一般取引にまで介入しようとしていたことがわかる。しかし、実際にどれだけ守られたかとなると、心もとない。

それというのも、先の撰銭令が発布されて約半月後の3月16日付で、京都上京(かみぎょう)にあてて発布した追加令があるからだ。注目されるのは次の二点である。

  • ④米を使って売買してはならない。
  • ⑤一定数量以上の生糸、薬、緞子(絹織物の一種)、茶碗、その他唐物の売買は金銀を交換手段に使うこと。これらの商品以外は、規定の銭を使うこと。

④で米を使った売買を禁止したということは、現場では米を貨幣として使うという実態が横行していたことになる。信長が先の撰銭令で意図したのは、銭での売買のみを認めることだったから、米による売買はその意図に反する。そこで追加令によってわざわざ禁止したのである。

前述のように、撰銭令を発する直前、信長の軍隊が京都に入り、労働者を大量に動員したため、米への需要が急に増えていた。そこで食糧として彼らに分配する米を確保するため、交換手段として使うことを禁じた。

けれども、信長の命令は市場では受け入れられなかった。その後、1570年代に入ると、京都や奈良では米を売買の手段として使用していたことを示す史料や記録がむしろ増加していく。現場では米を使うなと言われても銭不足で銭がなく、米なしではもはや売買が成り立たない切実な状況にあった。

米は品質に極端な違いがなく、潤沢な生産量を維持しており、食糧・兵糧や年貢としてつねに需要が存在した。そのため他の品物よりも相手に受け取ってもらえる可能性が高い。これらの理由から、米は貨幣として使用されるようになった。

⑤の規定も、市場動向に押されて妥協した結果の内容とみなされている。当初発した②では唐物や絹布も含め、あらゆる品目について銭以外で支払ってはならないとしていたが、⑤では高額取引に限って金銀での支払いを認めた。貿易商人らから反発を受けたためとみられる。銭不足が慢性化していた段階では、大量の銭を必要とする高額取引も銭での支払いに限るのは現実的でなかった。

千葉経済大学准教授の川戸貴史氏(日本経済史)は「わずか半月でこのように内容の変更を迫られることになったのは、事前のリサーチが不足していたからにほかならない」と厳しく評価する。そのうえで、撰銭令を信長の経済政策全体にまで敷衍して低い評価をすることは控えなければならないとしても、信長が当時の経済に精通していたとみるのはやはり過大評価だろう」と述べる(『戦国大名の経済学』)。

信長といえば、楽市楽座の推進などにより経済通のイメージがあるが、そうした見方には再考が必要かもしれない。

大阪経済大学教授の高木久史氏(日本中世・近世史)も、信長の撰銭令は必ずしもその効果を発揮しなかったことから「絶対的恐怖政治家である信長が革新的な政策を人々に思うまま従わせたという、創作類にありがちなイメージとは逆の実像も浮かび上がる」と指摘する(『撰銭とビタ一文の戦国史』)。

さすがの信長も市場原理には勝てなかった。マネーの規制は失敗に終わった。

撰銭令に関する歴史書では、上記に引用した二書を含め、当時の銭不足がしばしば強調される。けれども注意が必要なのは、銭が不足しても、市場では代わりの貨幣をすぐに見つけ出している点だ。米がそうだし、金や銀も使われた。1570〜80年代の奈良では、豆や小麦や塩なども交換手段として使われた。

このように、政府・中央銀行が貨幣を供給しなくても、市場は自律的に貨幣を生み出す。そのほうが政府の官僚よりも、刻々と変化する経済情勢に柔軟に対応できる。

経済評論家の上念司氏は、貨幣量の縮小はデフレを招き景気に悪影響を及ぼすとして、信長は当時増加していた銀の生産量を生かし、独自通貨として銀貨を導入すればよかったと論じる(『経済で読み解く織田信長』)。

だがすでに指摘したとおり、当時、銭の不足は米などが貨幣の役割を果たすことで補われていたから、必ずしも貨幣が不足していたとはいえない。かりに不足していたとしても、デフレが長期で経済成長に悪影響を及ぼす証拠はない

もし信長が、上念氏の提案どおり、大量の銀貨を発行していたら、銭不足の悩みは解消したとしても、逆にお金の無駄遣いという、権力者にありがちな過ちを犯したかもしれない。南米で発見した銀を担保に借金を重ねて膨大な軍事費に充て、産業の衰退を招いた同時代のスペイン帝国のようにである。

幸か不幸か、信長は支配下にあった生野銀山を活用することはなく、世界の注目を浴びた石見銀山の利権も毛利氏に奪われていた。 撰銭令を発してから十三年後の1582年(天正10)、京都本能寺で明智光秀の謀反に遭い、命を落とす。

<参考文献>
  • 川戸貴史『戦国大名の経済学』講談社現代新書
  • 高木久史『撰銭とビタ一文の戦国史』(中世から近世へ)平凡社
  • 上念司『経済で読み解く織田信長 「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する』ベストセラーズ

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