2020-11-22

応仁の乱の京都で略奪が横行した理由〜飢饉・重税・戦乱の三重苦

海外で災害や差別をきっかけに暴動が起こり、大規模な略奪に発展すると、日本で政治家などから「民度が低い」とさげすんだ声がよく上がる。しかし日本がこれまで大規模な略奪に無縁だったかといえば、決してそんなことはない。

歴史上、略奪が多数横行したことで有名なのは、室町時代末期に起こった応仁の乱だ。足利将軍家と管領畠山・斯波家の継嗣問題に端を発し、細川・山名両有力守護大名の勢力争いが絡み合って、東西両軍に分かれ、1467年(応仁元)から1477年(文明9)年まで11年間にわたって京都を中心として争われた大乱である。

足軽のもう一つの顔

応仁の乱で初めて出現したといわれるのは、足軽である。一般には軽装で機動力に富む歩兵として知られるが、足軽にはもう一つの顔があった。

一条兼良という当時の最上級の公家は、「足軽は、並はずれた、とんでもない悪党だ」と述べた。本来、足軽とは戦うことが仕事なはずなのに、敵がいるところには攻めかからない。敵がいないところに押し入って、放火して物を取っていく。これははっきり言って「昼強盗」である。白昼堂々と強盗をしているようなものであると、一条兼良は強く批判している。

つまり足軽には、「悪党であり、敵と戦わずに寺社・公家の屋敷などを破壊し、強盗(略奪)・放火をする人たち」という側面があったと歴史学者の呉座勇一氏は指摘する(『戦乱と民衆』)。

この足軽たちは、いったいどこからやって来たのだろうか。それを知るには、時代を少しさかのぼる必要がある。

冷夏・長雨で飢饉に

15世紀前半から、シュペーラー極小期と呼ばれる太陽活動の低下期が始まった。これを背景に、応仁の乱が始まる40年ほど前から冷夏・長雨といった気象状況が頻繁に現れ、およそ10年に1度の頻度で全国規模の重大な飢饉をもたらすようになる。

1427年(応永34)の6月から8月にかけて、日本各地で大雨・洪水に見舞われた。大雨による凶作は、翌年の飢饉を深刻化させた。

1428年(正長元)夏も前年同様に低温で長雨が続いた。気象予報士の田家康氏によれば、伊勢で「当年飢饉、餓死者幾千万と数知れず、鎌倉でも二万人が死んだと聞く」、会津で「大雨洪水、諸国悪作大飢饉」、下野で「飢饉洪水」と飢饉が関東や東北まで及んだ(『気候で読む日本史』)。

諸国の飢饉難民たちは、初めは「山野・江河に亡民充満す」といわれ、地元の村々の山野河海に食物を求めて殺到する。しかしそれも尽きると、京に向かって物乞いの大きな奔流となっていった。難民たちの殺到で、ついには京の人々も「食物なくして、すでに餓死に及ぶ」「洛中の人家衰微す」という、二次飢饉に襲われる。

降りかかる重税

人々を苦しめたのは、天災による飢饉だけではない。人災もあった。

1423年(応永30)の2月末から3月にかけて、紀伊国(和歌山県)の紀ノ川流域にあった諸荘園の荘民たちが、一斉に荘園領主の高野山に対して多くの注進状(告発状)を提出している。このとき提出された「公方役書上(くぼうやくかきあげ)」と呼ばれる注進状群は、紀伊国守護(畠山満家)から賦課された「公方役」という課役の内容を荘園ごとに逐一書き上げ、その課役の過重と不当性を高野山に対して訴えるものだった。

「公方役」の中身を大別すると、①紀伊国内の守護関連施設で使役される②京都まで物資を運ばされる③その他の地域で使役される——の3種があった。これらはすべて、室町幕府体制の成立とともに、それまでの高野山に対する負担とは別に、新たに荘民たちに降りかかってきたものだった。

歴史学者の清水克行氏によれば、京都までの物資運搬は京上夫(きょうじょうふ)と呼ばれ、とくに重い負担になっていたと思われる。

当時、各国の守護は京都に在住するのが原則であり、紀伊国守護の畠山満家も例外ではなかった。しかも畠山満家の場合、将軍を補佐する管領の要職を務め、京都政界で枢要な地位にあった。当然、彼の京都での日常的な消費や政界工作のための資源は、すべて領国からの物資で賄われた。

京上夫の労役は代わりに金銭で支払う代銭納も認められており、基本的には1人の京上夫を差し出す代わりに荘郷は500文の夫銭(ぶせん)を支払うというルールになっていたらしい。ところが紀伊国のこの地域では500文というルールは守られなくなっており、いつの間にか800文かそれ以上に跳ね上がってしまっていた。

代銭納の場合も、人夫はいったん守護所のある大野に集結させられ、そこで夫銭を払わされたうえに、そのまま大野で数日間こき使われてしまうという例もざらにあったという。さらに、実際に京都にいく場合、通常は往復8日間ほどの拘束期間が不当に延長され、最長で20日間以上に及ぶこともあったらしい。

こうした状況はこの地域に限った話ではなく、室町時代の人々は、それまでの荘園制的な収取に加え、新たに公方役や守護役と呼ばれる武家側からの課役にも応じなければならなくなった。これが異常気象に加え、「人々の余剰を少なからず吸引していたのではないか」と清水氏はみる(『大飢饉、室町社会を襲う!』)。

軍が略奪を公認

飢饉や重税に苦しむ人々は、首都であり商業の発達した京に流れ込むようになった。彼らは当初、借金の棒引き(徳政)を要求して土倉・酒屋といった金融業者に押し入って破壊行為を行い、そこにある物を奪い取った。土一揆と呼ばれる。1428年(正長元)に起きた正長の土一揆は有名だ。

ところが1467年に応仁の乱が始まると、乱が終わるまで、京都で土一揆は姿を消す。それまで土一揆を起こしていた人々が足軽になったためである。「生活苦から土一揆に参加して京都で略奪をおこなっていた人たちが、応仁の乱が起きたので、今度は足軽として略奪をおこなっていた」と前出の呉座氏は指摘する。

従来の研究では、一揆は権力と戦う「反権力」の存在とされ、一方で、足軽は大名の手下だから「権力の手先」と位置付けられてきた。おおざっぱに言えば、土一揆は高く評価され、足軽の評価は低かった。

ところがその両者は、じつは同じ人がやっていた。実態としても、やっていることは同じ略奪である。したがって呉座氏が述べるとおり、「土一揆はすばらしく、足軽はけしからん」という論は成り立たない。

ただし、戦場で足軽が略奪に走った背景には、ある事情もあった。歴史学者の藤木久志氏によれば、京の戦場では、東西の両軍合わせて30万人とまでいわれた兵士たちに、まともに賃金や兵糧を支給することは、とうてい不可能だった。そこで、その代わりに両軍は足軽たちに、戦場での略奪を公認していた(『飢餓と戦争の戦国を行く』)。

応仁の乱の京都では、店舗に押し入って商品を奪う現代の暴徒のように、略奪がまかり通った。それは決してほめられた話ではない。けれどもその背景には飢饉、重税、戦乱という、人々にのしかかる三重苦があったことも忘れてはならないだろう。

<参考文献>

  • 磯田道史、倉本 一宏、フレデリック・クレインス、呉座勇一『戦乱と民衆』講談社現代新書
  • 田家康『気候で読む日本史』日経ビジネス人文庫
  • 清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館
  • 藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(読みなおす日本史)吉川弘文館

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