2020-11-21

宇野重規『民主主義とは何か』

自由が脅かされるとき

今の社会では、民主主義と自由主義は同じようなものだと、何となく信じられている。だから「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)」という言葉もあれば、「自由民主党」と堂々と名乗る政権政党もある。しかし、民主主義と自由主義が似たようなものだという考えは、正しくない。本書を読めば、その事実を知ることができる。

著者は本書で、ドイツの法学者・政治学者であるカール・シュミットの考えを紹介する。シュミットはその思想がナチスに利用されたとして批判されるけれども、民主主義に対する問題意識には鋭いものがあった。

シュミットは、自由主義と民主主義を明確に区別した。両者は本質的に異なり、これを安易に同一視することが、混乱を生み出しているとシュミットは主張した。

シュミットによれば、民主主義の本質は「同質性」である。同質性があるからこそ、民主主義においては、治者と被治者の同一性がいえる。逆に言えば、民主主義の同質性を維持するためには、「異質なるものの排除あるいは殲滅」が必要だという。

これに対し、自由主義の本質は「討論」である。多様な意見による討論を重視する議会主義は自由主義に属するものであって、民主主義ではない。議会主義ではしばしば公開性と権力分立が強調されるが、これらも自由主義的な理念であり、民主主義とは無関係だとシュミットは言う。

シュミットはさらに議論を進め、だから民主主義は議会主義なしにも存在しうるし、むしろ指導者が国民から喝采を浴びる独裁と結び付くとまで述べる。著者は「今日の目からすれば、これはあまりに極端な議論であり、危険な暴論」と急いでストップをかけるが、民主主義と自由主義の矛盾を正しく指摘した思想家は、シュミット以前にもいた。

フランス革命期の政治家・批評家バンジャマン・コンスタンは、ルソーの人民主権論を批判し、こう論じた。仮に人民が主権者となるからといって、その下での統治が必ず良いものになるとは限らない。問題は、誰が主権者になるかではなく、誰が主権者であるにせよ、その主権の範囲ではないか、と。

主権の力が強大になり、その及ぶ範囲が拡大すれば、どうしても個人の自由や権利が侵害される。そうだとすれば、主権の担い手ばかりを論じているのではなく、主権の力に外から枠をはめることが重要ではないか。民主主義の下でも、個人の自由は侵害されることを警戒すべきではないか。自由主義者のコンスタンはそう説くのである。

「多数者の決定によって、少数者の権利がいかに容易に侵害されるかを知っている現代人の私たちとしては、コンスタンのルソー批判に説得力を感じざるをえません」という著者のコメントに、まったく同感である。

著者自身は、民主主義の課題を認識しながらも、その未来を信じているようだ。それは甘いのではないかと感じるけれども、民主主義に対する批判を公平に紹介した本書の価値を減じるものではない。コロナ対策を名目に、民主主義国家によって個人の自由が脅かされる今、本書によって民主主義と自由の関係をあらためて学んでおきたい。

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