2020-10-04

大交易時代とアジアの活力

クリストファー・コロンブスの銅像が米国各地で相次いで破壊されている。米国では近年、15世紀に米大陸に到達したコロンブスを「先住民の虐殺者」とする見方がある。報道によれば、今年5月に起きた警察官による黒人男性の暴行死事件を機に、批判が強まった可能性があるという。

コロンブスは「大航海時代」を代表する探検家として知られる。とくに世界史に詳しくない人でも、大航海時代という言葉は聞いたことがあるだろう。15世紀から17世紀にかけて、欧州諸国が海に乗り出し、アジアやアメリカへと進出していった、世界史の画期とされる時代だ。


ところが近年、この大航海時代について、高校世界史の教科書に大きな変化が起こっている。大航海時代とは欧州側からみた名称であるとして、アジアの視点が強調され始めた。

たとえば、東京書籍「世界史B」では、もはや「大航海時代」という言葉は本文中には出てこない。当時の南シナ海やインド洋における国際交易の発展は、欧州人渡来以前に準備されていたアジアの航海者のネットワークを基礎としていたと指摘する。そのうえで、この時代を、世界中の交易規模が大拡大した時代として、「大交易時代」と呼ぶ。

大交易時代の幕開け、アジアで特異な存在感を示したのは中国の明王朝だ。


14世紀に続発した災害・疫病は、東アジアの社会にも深刻な打撃を与え、各地で政府の支配が揺らいだ。中国の元王朝の下では、白蓮教徒が起こした紅巾の乱が拡大し、蘭の指導者の一人だった朱元璋(洪武帝)が、1368年に金陵(現南京)を都として明を建てた。元朝は明軍に大都(現北京)を奪われてモンゴル高原に退く。明は江南から興って中国内地を統一した初めての王朝となった。

モンゴル族が支配する元朝と対抗するなかで成立した明朝は、漢族の文化を再興しようとする傾向が強い政権だった。洪武帝は、儒教を重んじ小農民が基盤となった社会に皇帝が君臨する体制を築こうとし、厳しい統制を行う。

その一環として、不換紙幣の大明宝鈔を発行するとともに、金銀使用の禁令を発する。狙いは経済的に豊かな江南を中心に流通していた銀を吸収し、華北と江南に不換紙幣を通行させて、経済面での南北同等支配を実現することにあった(壇上寛『陸海の交錯』)。

しかし、障害があった。海外貿易が続けば、銀経済をいっそう進展させかねない。おもな貿易港はすべて江南にあったから、南北の格差拡大にもつながる。そのため明は民間貿易の禁止に踏み切り、中国人の海外渡航も禁じた。これを海禁と呼ぶ。

民間貿易の全面禁止によって、明との交易は朝貢貿易だけに限られることになった。朝貢貿易とは、中国の皇帝から名目上、臣下と認められた(冊封)周辺諸国の君主が貢物を捧げ、それに対し皇帝が返礼品を下賜する(回賜)形態をとる官営貿易である。

当時、日本人を中心として中国人や朝鮮人も加わった武装海洋民(倭寇)が、華北の沿岸部一帯などを荒らし回っていた。海禁はもともと、倭寇の取り締まりが第一の目的だったが、それとともに貿易規制、ひいては国内経済の統制という経済的な役割も担うことになる。

明は中華思想に立ち、すべての周辺国に朝貢貿易を強要しようとした。当時、周辺国の経済は中国との交易なしには成り立たなかったから、次々と朝貢関係を結んだ。日本も室町幕府の第3代将軍、足利義満が「日本国王」として冊封を受け、日明貿易(勘合貿易)を始める。

元末の混乱で失われた海洋ネットワークを、明帝国は政治の力で再構築しようと、膨大なコストを払っていく。1405年、第3代皇帝の永楽帝はイスラム教徒(ムスリム)の宦官、鄭和に命じて大艦隊で東南アジアやインド洋沿岸など南海諸国への遠征を始めさせる。鄭和の遠征によって民に朝貢した国は、50以上にのぼったという。明帝国の政治力による力ずくの海洋ネットワークの再構築は、みごとに成功したかに見えた。

ところが明自身、この体制を維持できなくなっていく。朝貢国の貢物に対する皇帝の回賜は、恩恵として貢物より多く与えるのが通例だった。50カ国以上の朝貢に対する回賜は、さすがに民の財政を圧迫した。このため永楽帝の没後、しだいに朝貢の回数が厳しく制限される。

こうした中で、アジア貿易において明という大国に代わり、小国の存在感が増してくる。その一つが琉球王国だ。琉球諸島では首里の中山王が政治的な統一を達成し、明の冊封を受けて琉球王国を成立させた。琉球の国際港、那覇には多くの福建系中国人が移り住み、日本や朝鮮、東南アジア諸国と中国を結んで盛んに交易を行なった。

もう一つはマラッカ王国だ。鄭和の遠征終了とともにインド洋の諸港と中国を直結するルートは途絶えたが、代わって鄭和の遠征拠点であったマレー半島のマラッカ王国が対明貿易で繁栄に向かった。マラッカは明への朝貢貿易を続ける一方で、国王がイスラム教に改宗して、西方のイスラム世界との関係を深めた。

マラッカにはインド洋からムスリム商人が香辛料、綿布、宝石、銀をもたらし、また中国商人が南シナ海から陶磁器や絹を、ジャワの商人がモルッカ諸島から香辛料を運んだ。「マラッカの港では84種類もの言語が聞かれる」といわれるほどだった。

15世紀の大交易時代は、明という帝国が海から退いたことで、琉球やマラッカといった中継交易国が台頭し、自由な海の結節点となった。歴史学者の北村厚氏は大交易時代について「どこが覇権をにぎるというのでない、海の国際化・多様化・脱中心化の時代」(『教養のグローバル・ヒストリー』)だったと述べる。

コロンブスへの批判を機に、欧州中心の歴史観を見直し、アジアの活力あふれる大交易時代に理解を深めてみたい。

<参考文献>
檀上寛『陸海の交錯 明朝の興亡』(シリーズ 中国の歴史)岩波新書
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房
福井憲彦他『世界史B』東京書籍
川北稔他『新詳 世界史B』帝国書院

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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