2020-05-02

恵方巻き、ロス削減要請が正しくない理由~見えない別のムダが発生~

節分の時期に店頭に並ぶ恵方巻きについて、農林水産省が作りすぎを控えるよう流通業界に要請し、話題となっています。コンビニエンスストアなどで大量の売れ残りを廃棄する様子が交流サイト(SNS)に投稿され議論を呼んだこともあるだけに、インターネット上では「いい取り組み」「当然のこと」などと好意的な反応が目立ちます。

恵方巻きに限らず、食べ残しなどで捨てられる「食品ロス」への批判が強まっています。恵方巻きについて、農水省は食品資源を有効に活用する観点から、需要に見合った販売をするよう要請したそうです。

今年2月3日の節分に向けた生産準備はほぼ終わっているとみられ、要請にどれほど効果があるか疑問もありますが、少なくとも来年以降は農水省の意向を無視できないでしょう。形式上は要請でも、政府の言うことである以上、企業側は事実上の義務と受け止めるはずです。


けれども政府主導による食品ロス削減は、本当の意味で無駄減らしにつながるのでしょうか。残念ながら、答えはノーです。

恵方巻きなど大量の食料が廃棄される様子は、視覚を通じて私たちに強烈な印象を与えます。ですが経済問題について正しく判断するには、目に見えるものだけにとらわれてはいけません。目に見えないものも考慮に入れる必要があります。

19世紀フランスの経済学者フレデリック・バスティアは「見えるものと見えないもの」と題するエッセーで、次のようなたとえ話をします。

パン屋の小さな息子がうっかり、店の窓ガラスを割ってしまいます。父親の店主はカンカンですが、見ていた人がこうなだめます。「まあまあ、悪いことばかりではないよ。たとえば、そら、ガラス屋が仕事にありつくじゃあないか」

一見、もっともらしく思えます。ガラス屋がやって来て、壊れた窓ガラスを取り替え、代金を受け取り、にっこり笑います。窓には新品でピカピカのガラス。ガラスを割ってくれたおかげで、パン屋や町内が豊かになったようにすら思えてきます。でもそれは、ガラス屋の笑顔や真新しいガラスなど、目に見えるものだけに注意を奪われているからです。

本当に豊かになったかどうかを判断するには、目に見えないものについても考えなければなりません。ガラス交換の代金が2万5000円だったとしましょう。もし窓ガラスが割れなかったら、パン屋の主人はそのお金で新しい靴を買うつもりでした。そうなれば、窓ガラスと靴の両方を持っていたはずです。

ところが実際には窓ガラスが割れ、その交換にお金を使ってしまったので、靴をあきらめ、窓ガラスだけで満足するしかありません。豊かになるどころか、手に入るはずだった靴を失い、貧しくなってしまったのです。

しかし多くの人は、それを理解しません。買いたかった靴という、目に見えないものの存在に思い至らないからです。米国の経済ジャーナリスト、ヘンリー・ハズリットは著書『世界一シンプルな経済学』(邦訳は日経BP社)でバスティアのこのたとえ話を紹介し、経済について正しく考えるには、目に見えないものを見る想像力が必要だと強調します。


経済について正しく考えるには、見えないものを見る想像力が必要


それでは想像力を働かせ、あらためて恵方巻き問題について考えてみましょう。この問題で目に見えるのは、先ほど触れたように、売れ残って廃棄される大量の恵方巻きです。もし農水省の要請が功を奏し、売れ残りが少なくなれば、食品ロスを憂える人たちの笑顔も見ることができるでしょう。

一方、目に見えないものは何でしょうか。

農水省は流通業界に「需要にあった販売を」と要請していますが、事前に正確な恵方巻きの需要を知ることができたら、商売人は苦労しません。天候や商品の人気をはじめ、さまざまな要因で需要は増減します。多少目算が狂っても売れ残りが出ないよう、コンビニやスーパーは生産を絞るでしょう。

そうなると予想されるのは、欠品です。消費者が恵方巻きを買おうと思ってせっかくコンビニやスーパーに足を運んでも、売り切れている可能性が高くなるのです。

食品ロス削減を何より優先する立場からは「欠品で買えなければ仕方ない」「品切れでも店にクレームなど付けないよう、消費者を教育しよう」といった意見が聞かれます。また「予約販売にすればよい」という声もあります。実際、農水省は今回の要請で、予約販売の徹底を小売店に求めています。

しかし、目に見えないものが忘れられています。それは「時間」です。

消費者が店に行ったのに恵方巻きが品切れなら、行った時間が無駄になります。他の買い物もあれば丸々無駄にはならないかもしれませんが、どうしても恵方巻きが欲しければ、別の日に出直したり、他の店を訪ねたりと、さらに時間を費やすことになります。わずかな時間も社会全体で積もり積もれば馬鹿になりません。

予約販売にしてもその問題は解決しません。予約した後、何かの事情で恵方巻きがいらなくなっても、わざわざ店まで取りに行かなければなりません。いらない恵方巻きを捨てるのはもったいないと、もらってくれる人を探せば、そこでも余計な時間を使います。

食べ物を粗末にしないのは良いことですが、そのために時間の浪費という別の無駄を増やして平気だとしたら、本当の「もったいない精神」とは言えないでしょう。

恵方巻きという一つの商品だけなら、まだ無駄になる時間も経済全体への影響も小さいでしょう。しかしさまざまな食品にロス削減の圧力が広がれば、話は違ってきます。実際、昨年12月、超党派の議員連盟が発足し、食品ロス削減を促す議員立法に向け動き出しました。

食品ロスの削減はしばしば、世界から飢餓をなくすこととセットで語られます。飢餓をなくすことは重要な課題です。しかし無理な方法で食品ロスを減らしても、飢餓をなくす役には立ちません。それどころか、時間のロスにより、本来なら日本で生産できるはずだった途上国向けなどの食糧が十分作れなくなり、飢餓を長引かせることになります。

けれども多くの人はそれに気づきません。廃棄される食品が目に見えるのに対し、無駄遣いされる時間や、作られるはずだった食糧は目に見えないからです。

過剰な生産と売れ残りは、流通企業の損失になります。だから政府の介入に頼らなくても、作りすぎは自然に減っていきます。大手スーパーなどでデータ分析をもとに食品の廃棄率を抑える試みもあります。作りすぎが完全になくなることはないでしょうが、それは私たちの買い物の利便性を高め、時間を有効に使うためのやむをえないコストなのです。

食品ロスは少ないに越したことはありませんが、その削減は時間のロスなど他のコストとの兼ね合いで考えなければなりません。政府の押しつけではなく、現場を知る企業の工夫と判断を尊重することが大切でしょう。
日経BizGate 2019/1/17)

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