2020-05-01

アフリカの繁栄と自由貿易

2020年7月、アフリカ大陸自由貿易圏(AfCFTA)の運用がスタートする。AfCFTAは、アフリカ連合(AU)に加盟する55カ国・地域による自由貿易圏構想。アフリカ大陸全域での単一市場創設や、資本と人の移動の自由確立を目指している。2019年5月に設立協定が発効した。実現により、人口約12億人を抱える巨大市場が生まれる。

アフリカ経済の将来に対する世界の期待は大きい。アフリカは長らく経済の停滞が続いたため、経済成長の可能性には懐疑的な見方が少なくなかった。しかし経済停滞の原因は、かつては欧州による植民地支配、近年は社会主義政策の採用によって、自由な貿易が阻害されたことにある。

歴史をさかのぼれば、アフリカには自由貿易によって繁栄した時代があった。そこで重要な役割を果たしたのは、イスラム教徒(ムスリム)商人である。

歴史上、アフリカの繁栄に寄与した重要な交易路は大きく二つある。一つはサハラ砂漠を越えるルート、もう一つはインド洋を渡るルートである。


サハラ砂漠は古くから、アフリカが外的世界と交流するうえで重要な役割を果たした。北アフリカの地中海沿岸からサハラ砂漠を越えて西アフリカのニジェール川中流域に至る交易路は、4世紀ごろにラクダを利用するようになってから発展する。

サハラを越えた南北の交渉が活発になるのは、8世紀初め、サハラ以南の西アフリカへイスラム教が浸透してからである。7世紀に興ったイスラム教はまもなく、軍事的制服によって北アフリカに進出するが、西アフリカへの浸透は商業活動を通じた平和的なものだった。また、アラブ人ムスリムの入植によってではなく、イスラム化した西アフリカの黒人諸族を通じて、間接的に浸透していった。

おもな交易品目として北から運ばれたものは岩塩、馬、装身具などの奢侈品、南から運ばれたものは金、奴隷だった。このような交易の保護と取引に対する課税の上に、ガーナ王国など広域支配の国家が形成された。

ガーナ王国は、現在までに知られているアフリカ最古の黒人王国である。現在のモーリタニア東南部を中心として、8世紀初めから11世紀末まで栄えたとみられる。都は王の町と少し離れた商人の町からなり、商人の町はすなわちイスラム教徒の町だった。商人とともに、北アフリカからイスラムの導師などの宗教家や学者も来往し、ガーナの黒人王(王自身はイスラム教徒ではなかった)に厚遇された。


ガーナ帝国の繁栄は金によっていた。金の主産地はセネガル川上流とニジェール川上流で、川底の砂や砂漠の砂をすくって採集された。ガーナの豊かな金は多分に誇張して伝えられ、当時のアラブの地誌には「ガーナでは金は砂の中にニンジンのように生える」と記されている。王は金などの取引に対して課税し、主要な財源とした。

ガーナの衰退後、13世紀に興ったマリ王国も、北アフリカとの交易の上に繁栄を築いた。イスラム教に入信したマリの王は、威信の裏付けとして豪華なメッカ巡礼を行った。とくに、マリ王国最盛期の王マンマ・ムーサは1324年にエジプト経由でメッカ巡礼を行った際、カイロの町を金の施し物であふれさせたため、カイロでは金価格が下落したと伝えられる。「黄金の国マリ」の名が中東アラブ世界に響き渡った。

マリ王国の中心的都市に、現在のマリ共和国のトンブクトゥがある。交易都市として繁栄する一方で、イスラム教の学術の中心地となった。天文学や数学、医学、法学などイスラム世界の高度な知識が集まり、膨大な数の写本が作られた。現存する写本も多く、アフリカ史を研究するうえで貴重な資料となっている。トンブクトゥの町は現在、世界遺産に登録されている。

一方、インド洋の西部海域では、おおむね4月末から9月にかけて強い風が南西から北東に、つまりアフリカ方面からアラビア、インド方面に向けて止むことなく吹き続ける。そして11月から3月にかけては、逆に北東から南西へ向けて風が吹く。この風を季節風(モンスーン)と呼ぶ。

一定の期間、ほぼ一定の方向に吹き続ける風は、風を受けて走る帆船の航行にはきわめて都合が良かった。しかも、その一定の期間が過ぎると今度は反対方向に風が吹き、出かけた船はその風に乗って帰ってくることができる。この季節風の仕組みを利用して、アフリカの東部沿岸地域とアラビアなどとの間では、紀元前から交易が行われてきた。

8世紀頃から、東アフリカの沿海部には西アジアのムスリム商人が象牙や金、奴隷などを求めて渡来し、キルワ、モンバサ、マリンディなどの港市を建設した。イスラム教は長い時間をかけて住民の間に広まっていき、12世紀にはこれらの港市には大規模なムスリム商人の居住地ができた。この地の商業都市民であるムスリムはスワヒリと呼ばれ、アフリカのバントゥー系言語にアラビア語を取り込んだスワヒリ語を用いるようになった。スワヒリとは、アラビア語で海岸地帯を意味するサワーヒルに由来する名称である。

スワヒリ諸都市の中でも、とくに現在のタンザニア南部にあるキルワは、12世紀末に現在のジンバブエの産金地域と海岸のスーファーラとを結ぶ長距離交易路を支配するようになり、重要な交易都市に成長し、14世紀には東アフリカ最大の都市として全盛期を迎えた。遺跡からの出土品には貨幣、子安貝、イスラム陶器、ガラス器、ビーズの他に宋代の磁器が含まれており、インド洋交易圏でキルワが重要な地位を占めていたことを物語る。1331年に同地を訪問した旅行家のイブン・バットゥータは「キルワは世界で一番美しい整然とした町の一つである」との記録を残している。

スワヒリ都市の特徴は、多様な民族構成にあるといわれる。だがその一方で、住民はイスラム教とスワヒリ語を共有し、アフリカ内陸部とは異なる独自のスワヒリ文化圏を形成した。イスラム教は都市民に共通の価値観や倫理観をもたらし、沿岸部の共通語となったスワヒリ語は異なる民族集団や移民間のコミュニケーションを可能にした。スワヒリ語は現在もケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダでは公用語となっているほか、アフリカ東岸部で広く使われている。

歴史を振り返れば、アフリカ経済が貿易をエンジンとして飛躍する素地は十分あるといえよう。自由貿易圏の成功に期待したい。

<参考文献>
宮本正興・松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書
川田順造『アフリカ』(地域からの世界史)朝日新聞社
宇佐美久美子『アフリカ史の意味』(世界史リブレット)山川出版社
私市正年『サハラが結ぶ南北交流』(世界史リブレット)山川出版社
富永智津子『スワヒリ都市の盛衰』(世界史リブレット)山川出版社

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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