渡部昇一は本村凌二との対談本『国家の盛衰』(祥伝社新書)で、製造業の弱体化が国家の衰退を招くとして次のように書く。米国では1980年代以降、国外で製品を作るほうが労働賃金が安く上がるため製造業の「国外フライト」が起こった。この結果、工場が米国内にあればそこで働けたはずの国民が働けなくなり、生活水準が下がった。
渡部は続ける。日本でも同じことが起こり始めている。衣料チェーン店のユニクロは安くて高品質な衣料を作り、多くの消費者を獲得して利益を上げているが、儲けているのは商品を開発したユニクロと、工場のある中国、バングラデシュなどだけで、日本国内の製造業で働くべき人たちは「置いてけぼり」を食っている、と。
渡部の主張はいわゆる産業空洞化論であり、それは経済学的に完全に誤っている。なるほど、自動車や衣料の工場が海外に移転すれば、そこで働いていた人々は一時職を失い、生活が苦しくなるかもしれない。しかしその他の大多数の国民にとっては、海外で生産される安い製品を買うことができ、生活は楽になる。
また国内の不採算な工場がなくなれば、その分、他分野の投資に回せる資本が増え、新たな成長産業が育つ。一時増えた失業者も、新産業の成長によって直接・間接に再雇用の機会が広がる。「産業空洞化」は渡部の唱える俗論とは逆に、国民の生活をむしろ豊かにするのである。
渡部は「就業人口の多い製造業を自国にとどめなければ、国の衰退につながる」と力説する。しかし労働コストの高い国内で企業に無理やり製品を作らせても、海外製品に価格競争で太刀打ちできない。だから政府は輸入品に関税をかけたり、国内企業に補助金を出したりして、自由な競争を妨げる。
だがその効果は長続きしない。米国政府の保護に守られてきた自動車大手ビッグスリーは日本車などとの競争に敗れ、GMやクライスラーは破綻してしまった。もし米政府が自動車産業を保護せず、自由競争に任せていれば、産業構造の転換がもっと早く円滑に進んでいただろう。米経済衰退の原因は、こうした政府の余計な介入なのである。
ところが渡部は日本の製造業、とくに自動車と電機を守れといい、そのために「国内の原発産業をさらに発展させなければいけない」と主張する。しかしかりに原発が必要だとしても、それを日本の電機メーカーが作らなければならない理由はない。高い労働コストが電力料金に跳ね返れば、苦しむのは一般国民である。
(2014年10月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)
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渡部昇一さんは、先々月に亡くなられた。合掌。私は自分の自由を皆に認めて欲しいから、皆の自由を認める立場。ブログ主の意見の自由も渡部昇一さんの自由も認めたい。渡部さんは、確か、一番大切な権利は、自由と仰っていたと記憶する。ブログ主の自由主義と渡部さんの自由主義は、やはり異なるようだ。渡部さんのこの時の立場は、日本国を一つの企業体と捉えて当人が経営者の立場で考えたら、日本株式会社の利益の最大化を安定的に維持したいと言う事だろう。しかし、国民である従業員の利益=賃金と政府の利益が背反する場合もあるという事をブログ主は指摘している。私は、短期的視点と長期的視点では政策予想が異なるものだし、現実の結果は人間の思惑が絡み合いさらに予想外となるだろうと言いたい。貿易が進めば、世界の物価が安い方に統一されていくだろう、賃金もまた安い方に統一されていく、その時間が異なるのだ。多分私の好みの政策は、ブログ主の意見に近いだろう。それは、政府が特定産業に肩入れせず税率を世界最低かつ累進税率を廃止する事だ。税が安くて公平な国が自由貿易の勝者に成り易いと思う。
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