2024-09-08

大逆事件の闇

近代日本で国家主義が次第に台頭していた1910(明治43)年5月25日、長野県明科のとある製材所の奥で、注意深く隠された木箱が発見された。その中身は、明治天皇暗殺のために準備された爆裂弾の材料だった。後にいう大逆事件、すなわち社会主義者・無政府主義者の幸徳秋水一味が天皇暗殺を目論んだとして大逆罪に問われ、処刑された一大事件発覚の瞬間である。この事件は、国家によるフレームアップ(でっち上げ)の典型として知られる。明治の「闇」を象徴する出来事だ。

「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆 (講談社選書メチエ)

当時は産業革命の進展に伴って賃金労働者が増加し、社会主義運動が盛んになりつつあった。幸徳、安部磯雄、片山潜らは1898年に社会主義研究会をつくり、1901年、最初の社会主義政党である社会民主党を結成したが、治安警察法によってすぐに解散させられた。それでも幸徳らは日露戦争に反対し、反戦論を唱えた。

日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加えた。実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、幸徳、管野スガらの創刊した「自由思想」も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。管野、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の4人は、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。

宮下は長野県明科の製材所で爆裂弾を製造し、爆発の実験も試み、1910年1月には東京・千駄ヶ谷の平民社で投擲の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。

当時の第2次桂太郎内閣は、当局にスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、同年5月の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原で幸徳を逮捕した。政府は一挙に社会主義運動の撲滅を狙って、幸徳が各地を旅行した際の放談などをもとに26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者、無政府主義者数百名を検挙して取り調べた。

検察当局は、爆裂弾で明治天皇の暗殺を計画したものとして、刑法の大逆罪を適用し、26人を起訴した。実際に計画を相談したことを認めたのは宮下ら4人だけだったが、翌1911年1月、わずか1カ月の審理で裁判所は幸徳ら24人に死刑を宣告し、その月のうちに幸徳、管野ら12人を絞首刑にした(12人は天皇の特赦として無期懲役に減刑)。管野はその手記に「今回の事件は無政府主義者の陰謀というよりも、むしろ検事の手によって作られた陰謀という方が適当である」と記している。

なお幸徳は弁護士宛の陳弁書で、無政府主義思想について「東洋の老荘と同様の一種の哲学」と述べ、「無政府主義者が圧制を憎み、束縛を厭い、同時に暴力をも排斥するのは必然の道理で、世に彼等程自由平和を好む者はありません」と力説した。このような無政府主義者からは、暗殺者は少なく、むしろ「暗殺主義なりと言わば勤王論愛国思想ほど激越な暗殺主義はない」と反論している。

大逆事件は同時代の文学者や思想家に衝撃を与えた。東京・本郷弓町の下宿に両親妻子5人とともに暮らしていた詩人、石川啄木にとって、事件の発覚した1910年は「思想上において重大なる年」となった。

啄木はかつて日露戦争を賛美したが、日露戦争後は痛烈な国家批判の立場に移っていた。幸徳やそのグループと接触はなかったが、大逆事件公判の進められている期間、絶えず旧知の弁護士から話を聞き、幸徳の陳情書などの記録を借り受けて、その膨大な記録を筆写した。幸徳らが処刑された日、「ああ、何という早いことだろう」と嘆いている。

小説家、徳富蘆花は翌月の2月1日、第一高等学校(現在の東大教養学部)弁論部の求めに応じて演壇に立ち、「謀叛論」と題して演説した。講演は暗くなってろうそくがともされるころまで続いた。それは痛烈な政府批判であり、また幸徳らの擁護論だった。

蘆花は幸徳らを「自由平等の新天新地を夢み、身をささげて人類のためにつくさんとする志士である」「死は彼らの勝利」であると断じ、志士をただ殺戮する以外に能のない閣臣、「蛇の蛙をねらうような」検察当局を痛罵したのち、「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見なされて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものはつねに謀叛である」と訴えた。

しかし、蘆花のように幸徳らを堂々と擁護する言論人は他にほとんどいなかった。幸徳らを乗せた囚人馬車を偶然目撃した小説家、永井荷風は「わたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした」と記した。

一方、取締当局は、事件をテコに弾圧体制の整備を図った。1910年7月、内務相は首相に社会主義に対する意見書を提出し、警察に社会主義専門の担当者を置いて偵察を徹底させることなどを提案した。このような意見を踏まえ、1911年4月、社会主義の取り締まりを専門に行う警察官の増員が図られた。8月には警視庁に特別高等課が設置された。のちの特別高等警察(特高)である。監視の網はいっそう厳しくなり、社会主義者などを「特別要視察人」としてリストアップして監視する体制が固められた。大逆事件を契機に社会主義には「冬の時代」が訪れた。

社会学者の菊谷和宏氏は著書『「社会」のない国、日本』で、ともに国家による冤罪であるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件を対比している。

ドレフュス事件では、軍部が捏造したスパイの証拠によってユダヤ系陸軍大尉ドレフュスが軍法会議で有罪とされる。これに対し作家ゾラはドレフュスを擁護し、一時亡命を強いられながらも、再審の道を開く。ゾラを衝き動かしたのは、「人間性が国の都合に優先されてはならない」「国家以前に尊重されるべきものがある」という信念だった。

このような信念を生んだものは何か。ゾラの同時代人である仏社会学者デュルケームによれば、それはキリスト教である。キリスト教が育んだ個人主義精神からみれば、国家という組織はそれがいかに重要であれ、ひとつの道具に過ぎず、目的のための手段でしかない。

一方、大逆事件では、荷風が恥じたように、ゾラのように立ち上がり、幸徳らを堂々と擁護する言論人はほとんどいなかった。キリスト教の伝統をもつフランスと異なり、日本には「国家以前に尊重されるべきものがある」という思想は根づいていない。菊谷氏の言葉を借りれば、国家のみがあって社会が存在しない。

日本では長い物に巻かれることがよしとされ、国家の暴走に歯止めをかける者がない。それは「和をもって貴しとなす」日本人の長所を帳消しにしかねない、深刻な短所である。

<参考資料>
  • 橋川文三編著『明治の栄光』日本の百年〈4〉、ちくま学芸文庫、2007年
  • 田中伸尚『大逆事件』岩波現代文庫、2018年
  • 菊谷和宏『「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆』講談社選書メチエ、2015年

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