2024-08-25

田中正造の戦い

北関東を流れる渡良瀬川の上流にある足尾銅山は、もとは幕府直轄の銅山だった。1876(明治9)年12月、生糸貿易商の古河市兵衛はこの銅山を買い取り、設備を近代化して採鉱を開始した。のちに会社組織の古河鉱業となる。開発が進むにつれて銅の産出量は年々増加した。

田中正造 (センチュリーブックス 人と思想 50)

ところがそれに伴い、渡良瀬川やその沿岸で異変が起こる。魚が大量に死んだり、山林や稲が枯れたりし始めたのである。銅の精錬に伴う亜硫酸ガスの放出量が増えるとともに、銅・亜鉛・鉛・砒素などの有毒重金属を含む鉱毒が川に大量に垂れ流されたせいだと、後日判明する。

栃木県選出の改進党代議士、田中正造は、この問題の解決は足尾銅山の操業停止しかないと考え、1891年の第2回議会に質問書を提出した。農商務大臣の陸奥宗光は答弁を避け、議会解散後に答弁書を官報に載せた。それには、被害は事実だが原因は確実でない、鉱業人(古河市兵衛)はなすべき予防の措置を準備しつつある、とあった。まるで「政府は鉱業人の代言人(弁護士)」のようだと批判を浴びる。陸奥大臣の次男は古河の養子だった。

正造は政府の言い逃れに騙されはしなかった。翌年の臨時議会に再度質問書を提出する。今度は専門家の分析結果が発表されたので、政府も足尾の鉱毒を認めたが、一方で手を回して、県知事や県会議員を仲裁役に立て、被害農民と古河の間に示談を成立させた。それは古河に著しく有利なものだった。

日清戦争中、足尾銅山は一段と発展し、被害は依然として続いた。田中は議会ごとに声を枯らして政府を難詰したが、事態は容易に進まなかった。

田中正造は1841(天保12)年、栃木県の名主の家の生まれで、19歳の若さで名主を継ぐと、農民を苦しめる領主の悪政を改めるために奔走し、捕えられ投獄されたという前歴がある。自由民権運動を経て国会開設とともに推されて議員となり、ほぼ10年間の議員活動の大半を、この鉱毒問題に注いだ。

1901年2月に正造の行なった質問は、「亡国演説」として有名である。正式な表題を「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」という。登壇した正造は、次のように政府を厳しく批判した。「民を殺すは国家を殺すなり。法を蔑(ないがしろ)にするは国家を蔑(なみ)するなり。皆自ら国を毀(こぼ)つなり。財用を濫(みだ)り民を殺し法を乱して而(しこう)して亡びざるの国なし」

同じ月の13日、被害地の農民2500人が大挙して議会への請願のため、上京に向かった。ところが利根川べりの川俣(群馬県明和町)で当局が待機させた200人の警官・憲兵と衝突し、数十人が逮捕され、上京は阻止された。「川俣事件」である。

正造は川俣事件に強い衝撃を受け、ただちに議会で2度の質問に立ち、警察・憲兵の暴行を批判した。2月15日には憲政本党(改進党の後身)への失望から、同党を脱党した。

同年3月の第15回議会では、あらためて鉱毒についての質問を数度行う。そのなかでとくに重要なのは、人民は国家権力の不当な行使に対して抵抗することができるという「抵抗権」の思想をはっきりと表現したことだ。

もし政府が古河市兵衛の指図を受けて、憲法で保障された人民の請願を妨害したり、被害民を捕えて牢へ入れるといった乱暴なことをするなら、政府は人民に「軍(いく)さを起す権利を与えるのである」と正造は主張した。

第15回議会は、北清事変(義和団事件)の出兵に充てる増税案を可決して閉会した。この出兵を機に日本は帝国主義に向かって大きくカーブを切る。当時、銅は生糸、綿製品に続く重要な輸出品であり、政府は輸出の花形である銅を守り、被害民を切り捨てたのである。

同年10月23日、正造はついに衆議院議員を辞職した。「憲法・政府・政党・議会といった制度を他力的に頼っても、問題が少しも解決しない」(布川清司『田中正造』)と悟ったからである。

しかし、すべての制度に絶望したかにみえる正造にも、ひとつだけ最後の希望が残っていた。それが辞職からまもない12月10日、第16回議会の開会式から帰る明治天皇に対して敢行した直訴だった。

この日、正造は黒の綿服、黒の袴、足袋はだしで拝観人の中から飛び出し、直訴状を手に高く掲げつつ、「お願いがござります」と叫びながら天皇の馬車に突進した。慌てた警護の警官がこれをさえぎろうとして落馬。正造もつまずいて転び、警官に取り押さえらえた。正造は麹町警察署に連行され、一晩留め置かれ、「狂人」として釈放された。

直訴文は正造の依頼で、当時名文家として知られた社会主義者の幸徳秋水が執筆し、当日の朝、正造が訂正・捺印したものだった。直訴という衝撃的な行為によって世論を喚起しようとしたのである。世間の人々は鉱害の認識を深め、その惨状に心を動かされ、支援の輪が広がった。

1902年、政府は渡良瀬川下流の谷中村を買収して村民を立ち退かせ、遊水池にして洪水を防ごうという計画を打ち出した。正造は遊水池化に反対して村民とともに運動を展開し、谷中村に移り住んで抵抗したが、1907年、政府は「土地収用法」を適用し、最後に残った16戸を強制破壊した。ちなみに政府側責任者の内務大臣原敬は、前年まで古河鉱業の副社長だった。

正造には他にも、現在においてもなお輝きを失わない主張がある。非戦平和の思想だ。

正造は、日露戦争開戦前の1903年2月10日に、静岡県掛川で初めて非戦論を主張した後、「倍々(ますます)非戦争論者の絶対なるもの」になっていった。日露戦争の際には、「日本の開戦ハ誠に山師の主張ニて国民の主張ニあらず」と述べ、その階級的性格を鋭く指摘する一方で、「戦争ニ死するものよりハ寧ろ内地に虐政に死するもの多からん」と言う視点から、日露両国政府に抑圧されているもの同士が国境をこえて連帯する必要性も呼びかけた。

また、ポーツマス講和条約の締結後も、「矢張小国ハ小国なり」として、油断して大国ぶることを戒め、日露戦争に勝利した日本だからこそ世界に先駆けて軍備を全廃するのが日本の「権利」であるという独特の認識を形づくるに至った。

20億円の軍事費を全廃すれば、5人家族平均125円となり、10年間無税にすることができる。あるいはまた、そのかわりに外交費を30倍、300倍に増やして、日本が世界平和の唱道者にならなければならない、それこそが日本の世界的使命であると主張した。「人類は平和の戦争コソ常に奮闘すべきもの」というのが、正造の基本的な考えであった。「まぎれもなく、日本国憲法第九条の先駆者の一人であるといえよう」(『田中正造』)と歴史学者の小松裕氏は指摘する。

正造は残った農民とともになおも抵抗を続けたが、1913(大正2)年9月4日、71歳で死去した。

1911年6月9日の日記に、正造は次のように書いた。「対立、戦うべし。政府の存在せる間は政府と戦うべし。敵国襲い来らば戦うべし。人侵さば戦うべし。その戦うに道あり。腕力殺伐を以てせると、天理によりて広く教えて勝つものとの二の大別あり。予はこの天理によりて戦うものにて、斃れても止まざるは我が道なり。天理を解し、この道実践のもの宇宙の大多数を得ば、即ち勝利の大いなるもの也」

歴史学者の由井正臣氏は、「まことに彼の生涯は、人民の生活を破壊し、権利をうばうものとの、天理・人道にもとづく壮絶な戦いの連続であった」(『田中正造』)と総括する。

政府と親密な有力企業が環境汚染などによって人民の生活を破壊するケースは、今もなくならない。人間の権利という「天理」に基づく抵抗の大切さを、田中正造の生涯は教えている。

<参考文献>
  • 布川清司『田中正造』(人と思想)清水書院、1997年
  • 由井正臣『田中正造』岩波新書、1984年
  • 海野福寿『日清・日露戦争』(日本の歴史)集英社、1992年
  • 松本三之介編著『強国をめざして』(日本の百年)ちくま学芸文庫、2007年
  • 大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』新日本出版社、2010年
  • 小松裕『田中正造——未来を紡ぐ思想人』岩波現代文庫、2013年

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