2024-08-18

政商から財閥へ

ロシア報道に登場する「オリガルヒ」は、「新興財閥」と訳されることが多いが、ときに「政商」という訳語を目にする。こちらのほうが本質を言い当てている。政商とは「政治家や高級官僚といった政治権力者と関係を持って、利権や情報を得ている商人」をいうからだ。

企業家に学ぶ日本経営史 -- テーマとケースでとらえよう (有斐閣ブックス)

日本では、政商は明治初期に登場し、特権的立場を利用して膨大な富を蓄積した。その半面、権力者との癒着には大きなリスクもつきまとった。その一つは、権力者が政商に特権を与えた見返りに、何らかの利益を求めてくることだ。後で述べるように、三井銀行ではそうした要求を断れず、権力者に融通した資金が不良債権となり破綻の危機に瀕した。

そこで、ある時点で一部の政商は、政府との関係を意図的に弱めていく。政商のままでは、権力者の意向を配慮するあまりに、自由な事業活動が束縛されてしまうからだ。権力者との関係を弱めることに成功した政商は、それまでに蓄積した資本を元手に、多角的な事業活動を展開し、「財閥」へと発展していく。財閥とは「富豪の家族・同族の閉鎖的所有、支配下に成り立つ多角的事業経営体」を指す。

財閥が多角的な事業を展開するにあたって、事業を管理するトップマネジメントが必要となった。旧来の番頭経営では近代的なビジネスに対応することはできない。そこで、専門知識と企業家精神を持った人材を外部に求め、管理者として登用していく。そうした人材の多くは「学卒者」と呼ばれる高等教育機関の出身者だった。代表的な人物の一人が、三井銀行の雇われ経営者として同行の再建に成功し、三井の近代化の担い手となった中上川(なかみがわ)彦次郎である。

三井銀行は官金取り扱いを目的に設立された私立銀行だ。しかし1882(明治15)年に日本銀行が設立されたことによって、一般の商業銀行への転換が急務となった。

当時、三井銀行は多額の不良債権を抱え、経営危機に陥っていた。不良債権の多くは、官金取り扱いの見返りとして、不利な条件で政府関係者に貸し出したものだった。政商活動は三井にとって官金取り扱いといううまみがある半面、見返りの融資によって不良債権が増えていくというジレンマがあった。官金を取り扱っている限り、政府関係者に強く返済を促すことができなかったのである。

1891年、三井銀行の京都分店で取り付け騒ぎが発生し、同行は倒産の危機に直面した。そこで明治政府は、明治の元勲で、三井家顧問の井上馨に三井銀行の救済を依頼する。井上は、三井家内部に適当な人材が見当たらないことから、中上川彦次郎を三井家に推薦した。

中上川彦次郎は1854(安政元)年、中津藩(大分県中津市)に生まれた。母親は福沢諭吉の姉だった。1869(明治2)年、上京した中上川は叔父の福沢が設立した慶応義塾に学び、21歳で英国に留学する。帰国後、ロンドンで知り合った井上馨の招きで工部省に入るが、「明治14年の政変」による井上の失脚とともに明治政府を後にする。その後、福沢と設立した新聞社「時事新報社」の社主を経て、山陽鉄道の経営に携わっていた。

三井入りをするにあたって、叔父であり恩師でもある福沢諭吉に相談したところ、福沢は「三井の信用をもってすれば天下の金を左右することができるのだから面白い仕事だと思う」と勧めた。三井入りを決断した中上川は三井銀行の実質的経営者である副長となり、三井の改革を進めていく。

中上川はまず、不良債権の原因となっていた官金取扱業務から撤退する。業務を政府に返上し、全国に23あった取扱店を廃止した。

次に、徹底した債権回収に着手する。不良債権の筆頭は、京都の東本願寺に対する100万円の貸付金だった。中上川は東本願寺の別邸である枳殻邸(きこくてい)を抵当に取り、1年以内の返済を求めた。本願寺は中上川を仏敵として非難しつつ、全国の信者から浄財を集め、借入金を返済した。

政府高官の情実や口利きによる融資、高官個人への貸付なども断固とした態度で回収していった。三井入りを推薦した井上馨の反対を無視して、井上の友人・知人に対して返済を迫ることもあった。これが井上の不興を買い、のちの失脚の原因となる。「中上川は自分の信念に反することは、恩人の井上からの忠告であっても聞くことはなかった」と経営学者の山崎泰央氏は指摘する(『企業家に学ぶ日本経営史』)。

中上川は官金取扱業務からの速やかな撤退と不良債権の徹底回収によって、わずか2年で三井銀行の再建に成功する。この過程で三井と政府の関係を弱め、政商路線からの脱却を成し遂げた。

さらに中上川は、三井銀行の不良債権処理で回収した資金などを利用して、工業分野への展開を進める。それまでの三井家事業は呉服に始まって、銀行、商社など商業的な色彩が強いものだった。

鐘淵紡績(鐘紡)、芝浦製作所(東芝の前身)、新町紡績所、富岡製糸場などを経営したほか、王子製紙、北海道炭礦鉄道を三井傘下に収めた。同時にこの時期には三井物産が三池炭鉱の払い下げを受けた。455万5000という巨額の払い下げ代価であったが、同炭鉱とともに三井に入ったマサチューセッツ工科大学(MIT)出身の技術者・団琢磨の努力により、三池は発展し、三井のドル箱となった。

中上川の急進的な改革は、長くは続かなかった。日清戦争後の不況によって工業部門が不振になると、改革に不満を持つ反中上川派の台頭や井上馨の反発、三井同族からの警戒などによって、三井内部で孤立していった。さらに彼自身、健康を害したこともあり、療養のため第一線から身を引くことになった。1901(明治34)年10月、48歳という若さで失意のうちに世を去る。三井改革は、彼の死とともに、およそ10年で終わった。

失脚したとはいえ、中上川の改革は三井家だけにとどまらず、日本経営史に大きな足跡を残した。その成果は、①三井家が財閥に発展する基盤をつくったこと、②財閥の事業発展の方向を示したこと、③専門経営者(雇われ経営者)進出の端緒をつくったことだ。「中上川は三井を政商から近代的財閥へと再出発させたエース投手であった」と経済学者の宮本又郎氏は評価する。

<参考文献>
  • 宇多川勝・生島淳編『企業家に学ぶ日本経営史』有斐閣、2011年
  • 宮本又郎『企業家たちの挑戦』(シリーズ日本の近代)中公文庫、2013年

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