2024-05-19

「鉄血宰相」負の遺産

今から約150年前の1871年といえば、日本では発足まもない明治政府が廃藩置県を断行した年だ。その年の1月、フランスのベルサイユ宮殿でドイツ帝国創立式典が執り行われた。プロイセン国王ヴィルヘルム一世がドイツ皇帝に即位し、ここに国民国家としてのドイツ帝国が誕生した。

ビスマルク - ドイツ帝国を築いた政治外交術 (中公新書 2304)

ドイツ帝国の初代首相となったのはオットー・フォン・ビスマルクである。「鉄血宰相」として有名なビスマルクはその後、約二十年間にわたりドイツ帝国の舵取りを行うことになる。大政治家として知られるが、彼が残した「負の遺産」は小さくない。

ビスマルクはユンカーと呼ばれる地主貴族層の出身で、学生時代は決闘や喧嘩を好んだという。プロイセン王国の保守派の代議士、外交官を経て1862年、国王ヴィルヘルム一世が軍備拡張のため議会と衝突した際に首相に任じられる。このとき議会で「問題は、演説や多数決ではなく、ただ鉄と血によってのみ解決される」と有名な演説をした。鉄は武器を、血は兵士を意味する。

ドイツではこれに先立ち、工業地帯のラインラントを有するプロイセンが1834年にドイツ関税同盟を結成するなど、経済面で統一が進んでいた。ところが首相となったビスマルクは軍事力によって強引に統一を目指す。デンマークやオーストリアとの相次ぐ戦争で勝利し、1867年には、半世紀前のウィーン会議によって発足したドイツ連邦に代えて、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を成立させた。

一方、南ドイツ諸邦では、強大な隣国の誕生を恐れるフランスの煽動もあり、反プロイセン感情が根強かった。そこでビスマルクは、フランス皇帝ナポレオン三世を挑発し普仏戦争を起こさせた。外敵の出現で北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦は協同してドイツ軍を結成し、ナポレオン三世を捕虜にしたうえでパリを包囲した。ベルサイユ宮殿でドイツ帝国創立式典が執り行われたのは、このときだ。

ドイツ帝国は連邦制をとり、プロイセン王が皇帝位を世襲した。男性普通選挙制の帝国議会には、予算審議権があるのみで力はなかった。

イギリスで始まった産業革命が波及し、十九世紀後半のドイツでは鉄鋼、鉄道、自動車、兵器、化学といった産業が急速に発達した。これらの産業で働く労働者の数が激増し、労働条件の向上を求める声が高まる。

こうしたなか、ドイツ出身の思想家カール・マルクスらによって確立された社会主義思想が労働運動に対し影響力を強める。フェルディナント・ラサールが全ドイツ労働者協会を、アウグスト・ベーベルらが社会民主労働者党をそれぞれ結成し、1875年に合併してドイツ社会主義労働者党(現在のドイツ社会民主党の前身)となった。この党が労働運動をリードし、ビスマルクは脅威を感じるようになる。

ビスマルクは社会主義勢力のこれ以上の台頭を防ごうと、出版法や結社法を総動員して規制を試みるが、1877年の帝国議会選挙では逆に社会主義労働者党に五十万票近くが集まり、十二名に議席を許してしまう。

1878年5月11日、ブリキ職人マックス・ヘーデルによる皇帝暗殺未遂事件が起こり、これを受けて社会主義者を取り締まる法律を帝国議会に提出したが、法の前の平等を損ねる内容だったため、圧倒的多数で否決された。ところが6月2日にまたしても皇帝暗殺未遂事件が起こり、八十一歳のヴィルヘルム一世が重傷を負うと、ビスマルクはこの法案を可決しようと帝国議会の解散に打って出る。

二度目の暗殺未遂事件の犯人は大学出のカール・ノビリングで社会主義勢力とは直接関係がなかったにもかかわらず、政府は社会主義の恐怖を煽動した。それもあって同年の帝国議会選挙では保守勢力が議席を伸ばした。その結果、ようやく法案は可決される。「社会主義者鎮圧法」である。

この法律によって、社会主義系の組織は疑わしいものも含めて解散させられ、集会や印刷物も禁止された。当初は二年の時限立法のはずだったが、四回にわたって延長されて1890年まで効力を持ち続け、約千五百名が禁固刑に処され、約九百名がその地域から追放処分にされた。

ところがこのような厳しい取り締まりにもかかわらず、結果はビスマルクの思惑とは裏腹となった。社会主義者鎮圧法では、選挙に参加する権利と議員としての免責権が保障されており、抑圧されながらも社会主義労働者党は活動を続けた。その結果、1880年代にはむしろ議席を着実に伸ばしていった(飯田洋介『ビスマルク』)。

そこでビスマルクは次の一手を打つ。社会保障制度の導入である。社会主義抑圧という「ムチ」が利かないのであれば、労働者に「アメ」をしゃぶらせようというわけだ。

ビスマルクは1883年に疾病保険、84年に労働災害保険、89年に障害・老齢保険(年金保険)と一連の社会保険を世界で初めて立法化した。これらを「ビスマルク社会保険三部作」とも称し、社会保険はその後、急速に近隣諸国に広まった。日本ではしばらく遅れて、同じように労働争議の激化や米騒動などの社会問題が深刻化した1922年、ドイツにならって最初の社会保険である健康保険法が制定された。

これらビスマルクの社会保険は、当初加入義務が一定の部門に限られ、失業を含めカバーされていないリスクがあった。また労災保険については、ビスマルクは現在各国でよく見られるような、国家が社会保険に直接関与する形を考えていたが、連邦制のドイツ帝国では中央集権的な国家の介入には抵抗があったうえ、自由主義勢力から「国家社会主義」と批判されたことなどから、国家が直接関与しない形に譲歩した。それでも全体として、国営の社会保障に踏み出した意義は大きいとされる。

しかし制定の経緯が示すように、ビスマルクが社会保障を導入したのは、労働者の利便を向上させるためというよりも、あくまで政治上の立場を有利にすることが第一の目的だった。1890年代、知人に対し「私が考えたのは労働者階級の買収だ。つまり労働者を味方につけ、政府は彼らのために存在し、彼らの幸福に関心を持つ社会組織だと思わせるのだ」と本音を語っている。

労働者にセーフティーネット(安全網)を提供するには、必ずしも政府が介入する必要はなかった。一部の大企業はビスマルク以前にすでに企業独自の福祉制度があった。たとえば鉄鋼や軍需産業で有名なクルップ社は、疾病者に対する疾病金庫、年金金庫などを独自に用意していた。また、工場労働者たちが労働組合などを通じて相互扶助を行う仕組みも作られていた(橘木俊詔『福祉と格差の思想史』)。

国家の介入を正当化する根拠として、民間の小規模な助け合いだけでは給付水準が限られるという見方がある。しかしそれは民間のネットワークを広げることにより、対応できるはずだ。政府の官僚機構は民間のような柔軟性を欠き、細やかなサービスが得意ではない。

国家であれば民間以上の給付水準を実現できるといっても、財源は民間から徴収する保険料や税金だから、当然限りがある。それにもかかわらず、給付水準は政治的な配慮によって引き上げられやすい。その結果が今、日本をはじめ先進各国が直面する社会保障費の膨張だ。

ビスマルクが推し進めた政治的な地域統合は、今の欧州連合(EU)につながる考えだが、それも英国の離脱などにより是非が問われている。中世のハンザ同盟は政治的なつながりなしに繁栄を享受した。鉄血宰相の功罪を冷静に検証するべきときだろう。

<参考文献>
  • 飯田洋介『ビスマルク - ドイツ帝国を築いた政治外交術』中公新書
  • 橘木俊詔『福祉と格差の思想史』ミネルヴァ書房

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