2023-09-15

自由民権と小国主義

近代日本の対外政策は明治維新後まもなく、「大国主義」に舵を切る。大国主義とは「国際関係において、経済力・軍事力に勝っている国がその力を背景として小国に対してとる高圧的な態度」(goo国語辞書)のことだ。この路線は日清・日露戦争を経て第二次世界大戦で壊滅的な敗北を喫するまで、ほぼ一貫して続くことになる。

新・人と歴史 拡大版 45 中江兆民と植木枝盛

そうしたなかで、明治政府の大国主義を批判し、軍事的な対外膨張を戒める「小国主義」を唱える人々がいた。その中心となったのは、自由民権運動の論客たちである。自由民権運動とは明治前期の1870〜80年代、政府に対し民主的改革を要求した政治運動だ。

そもそも日本では幕末の開国当時から、軍事による対外進出を目指す発想が存在した。その一例は長州出身の思想家、吉田松陰である。松陰は書簡で、欧米の先進列強に対しては当面「信義」を守っておき、その間に軍備を整え、周辺の東アジア諸地域を抑え込んでいわば実力のほどを示し、やがて欧米諸国と対等の関係に入るという青写真を描いた。

維新直後の1871(明治4)年から73(明治6)年にかけて欧米を視察した岩倉使節団(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら)は、欧州で英国・フランス・ロシア・プロイセン(ドイツ)・オーストリアの大国だけでなく、ベルギー・オランダ・スウェーデン・スイスといった小国も訪れ、関心を示している。しかし結局、使節団を最も強くひきつけたのは、小国から大国への道を歩んだプロイセンだった(百瀬宏『小国』)。

岩倉使節団の帰国後、明治政府は1874(明治7)年、近代日本国家による最初の海外派兵である台湾出兵を行う(征台の役)。また翌1875(明治8)年、軍艦を江華島に派遣して朝鮮側を挑発し、交戦して砲台を破壊した(江華島事件)。翌年、朝鮮を独立国として承認し、領事裁判権・関税免除特権などを盛り込んだ日朝修好条規を結ぶ。これは日本が欧米から強いられた不平等条約を朝鮮に強制するものだった。

明治政府側がこのように、小国から大国への道を歩もうとするなかで、小国の存在理由を積極的に肯定し、日本の将来像をそこに定めようとする「小国主義」の論陣を張ったのが、自由民権運動の論客たちである。

たとえば、「郵便報知新聞」は1881(明治14)年の社説で、スイス、デンマークなどの弱小国が独立を保っているのは「権理」によるものだと述べた。「権理は国の強弱によって進退あるもの」ではないので、腕力国家の横暴に対しては、毅然として「ただ権理によりて外国に応対し争議する」ことが正しいと、道義立国、平和外交を主張している(色川大吉『自由民権』)。

自由民権の論客の中で、小国主義の主張でとりわけ精彩を放ったのが、植木枝盛、中江兆民の二人だ。

植木枝盛(1858〜92)は土佐国(高知県)で中級藩士の家に生まれた。上京して同郷の板垣退助の家に住み込む一方、読書や講演で知識を旺盛に吸収する。新聞への投書が言論規制に触れて投獄され、民権派の自覚を固めた。帰郷して政治結社の立志社に入り、民権運動のリーダーとなっていく。

1881(明治14)年、政府が国会開設を公約すると、民権派を中心に在野でも独自の憲法草案をつくるものが出てきた。なかでも枝盛の起草した「日本国国憲案」は、政府が憲法に違反して人民の自由・権利を抑圧したときは、これを倒して新しい政府を樹立することができるという抵抗権を盛り込むなど、急進的な自由主義で知られる。

枝盛の論文「無上政府論」は、小国主義の理念が明確にうかがえる。枝盛はそこで、現在の国連に似た「万国共義政府」の創設を唱える。この共義政府が設置され、国連憲章を思わせる「無上憲法」が定められれば、各国は外患の憂いが少なくなり、かりに国家間のトラブルが起こっても、共義政府の保護を受けることができる。

その結果、枝盛によれば、世界の国は皆、国を自由に小さく分けることができるようになる。そして、国土が小さくなればなるほど人々はお互いに接近して相互理解が進み、直接民主制も実施しやすくなる。また、国際紛争を共義政府によって解決するようになれば、各国の軍備が減り、それだけ人民の福祉を増進することができる。人間の品格も良くなり、「これまた大きな利益ではないか」と枝盛は説いた(田中彰『小国主義』)。

一方、中江兆民(1847〜1901)は本名を篤助(のち篤介)といい、約10歳下の植木枝盛と同じく土佐国出身で、下級武士の子である。長崎・江戸でフランス学を学び、岩倉使節団の留学生に加わった。フランスへ留学した兆民は、主としてパリとリヨンでルソーをはじめとする哲学や史学・文学を研鑽した。帰国後、元老院の書記官となるが、1977(明治10)年初めに辞し、以後は在野のジャーナリストとして健筆を振るった。

1882(明治15)年、兆民は「自由新聞」に論説「外交を論ず」を発表し、日本外交の基本的態度はいかにあるべきかを説いた。

まず兆民は、当時政府が目指そうとしていた「富国強兵」は、絶対に矛盾するという。経済を重んずれば多くの兵を蓄えることはできないし、もっぱら武を崇(とうと)ぼうとすれば多くの財貨を増やすことはできないからだ。なお別の論説で兆民は、徴兵による常備軍の廃止と民兵制の導入を唱えている。

次に兆民は、欧州の弱肉強食の国際情勢は「他国の弱なるを冀(ねご)ふて己が国の強なるを求むる」からだと論じる。そのうえで、小国が自信をもって独立を保つには、「信義」「道義」の上に立って、大国といえども畏れず、小国たりとも侮らないようにするしかないと説く。

歴史学者の松永昌三氏によれば、兆民は「日本の進むべき道は、軍事力に依拠して他民族を抑圧するがごとき『大国』への道ではなく、人民の自由権利の増進と生活の向上を求めて、各国人民が連帯し協力しあう『小国』への道であるとし、小国独自の発展を探求すべきだと説いた」のである(『中江兆民と植木枝盛』)。

残念ながら、枝盛や兆民の小国主義は主流の思想とはならず、近代日本は「軍事力に依拠して他民族を抑圧するがごとき『大国』への道」を進んでいく。

現在、国際情勢において大国の身勝手な行動が目立ち、世界を混乱に陥れている。小国主義の理念があらためて評価される日は遠くないだろう。

<参考文献>
  • 百瀬宏『小国:歴史にみる理念と現実』岩波現代文庫
  • 色川大吉『自由民権』岩波新書
  • 田中彰『小国主義―日本の近代を読みなおす』岩波新書
  • 松永昌三『中江兆民と植木枝盛:日本民主主義の原型』清水書院

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