2023-01-27

不換紙幣が支える戦争福祉国家

マット・レイ
(2023年1月19日)

お金の出現は市場現象である。市場性の低い商品を高い商品と交換することで、個人は最終的に消費したいが直接交換では手に入らない商品に近づくことができる。最も市場性の高い財が共通の交換媒体(つまりお金)になる。
お金が取引の片方にあることで、関連する価格の数が減り、分業が拡大し、生産段階での専門化が可能になる。つまりお金の基本的な機能は、交換を容易にすることである。この目的に反して、各国の紙幣が商品貨幣に取って代わったことで、貿易は困難になった。

経済学者ハンス・ヘルマン・ホッペは、これを「部分的物々交換の体系」と表現している。このように考えると、グローバルな不換紙幣の目的は、まったく別のところにあるといえるかもしれない。

金のような商品貨幣本位制のもとでは、国家の権力は制限される。経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは次のように説明している。

金本位制の卓越性は、通貨単位の購買力の決定を政府や政党の政策から独立させるという事実にある。さらに金本位制は、支配者が代表議会の財政的・予算的権限から逃れることを防ぐ。

しかしいったん政府が通貨制度を管理すると、独自の紙幣を発行することができる。紙幣が受け入れられるのは、それが購買力の確立した商品貨幣への請求権を表しているからである。政府は紙幣を償還する義務があるが、そのインフレ能力は表向き制限されている。

不換紙幣の目的は、この制限を取り払い、政府の支出を増やすことにある。これを説明するために、米国が限定的で分権的な連邦国家から大規模で中央集権的な国家に変貌した主要な出来事をいくつか見てみよう。後述するように、これらの出来事は純粋な不換紙幣への歩みと重なる。

経済学者トーマス・ディロレンゾは、リンカーンの大統領就任が現代の福祉・戦争国家の基礎を築いたと説得力のある主張をしている。最も重要なのは、「州間戦争」(南北戦争)によって分離独立の権利が潰され、州が連邦権力を抑制する手段が失われたことである。しかし戦争資金を調達するためには、新たな歳入源が必要であった。このため1861年と1862年の歳入法は、米国人に最初の連邦所得税を課し、内国歳入庁(国税庁)を設立した。

しかし市民が納得する直接税は限られている。その結果、1862年に法貨条例が制定され、財務長官が兌換性のない「グリーンバック」(ドル紙幣)を発行することができるようになった。1863年と1864年の全国銀行法では、全国的に公認された銀行の制度が作られた。このような制度は本質的にインフレを招き、グリーンバックは急速に価値を下げた。

結局、所得税は1872年に失効し、1875年の正貨支払再開法が金本位制への道を開くことになった。しかし所得税と紙幣国有化という前例ができたのである。さらに1862年に制定された太平洋鉄道法によって、大陸横断鉄道の建設に連邦政府が直接補助金を出すことになった。

政府の補助金は多くの汚職や非効率を引き起こし、ミーゼス学派が予想したように、さらなる介入を求めることになった。こうして1887年の州間通商法で米国史上初の連邦規制機関〔州際通商委員会〕を設立し、その三年後にはシャーマン反トラスト法(独占禁止法)が制定された。

このように経済に対する規制が強化された結果、進歩主義時代が到来し、1913年に中央銀行と所得税が恒久制度として確立され、その頂点に達したのである。最高税率は6%で始まったが、米国の第一次世界大戦参戦に伴い、1918年には77%まで高騰した。戦時中のインフレに続いて1920年には恐慌が起こったが、わりあい自由放任主義的な対応により、1921年半ばには急速に回復した。

しかし1922年初頭、連邦準備理事会(FRB)は再びインフレ政策に乗り出し、1928年末にようやく横ばいとなる。このためインフレ景気が起こり、1929年10月の株価暴落に至った。

暴落から一年後、経済危機は1920年恐慌と変わらないほど深刻なものになっていた。しかしハーバート・フーバー大統領は、高賃金と投資の拡大、農業補助金、公共事業、金融緩和と信用拡大政策という前代未聞の介入策を進めることになる。フーバーの介入は恐慌をさらに悪化させ、1932年の選挙でフランクリン・ルーズベルトに敗れた。

しかしルーズベルトのニューディール政策は、前任者(フーバー)の政策を発展させたものであり、その後、金本位制から離脱することになった。米国民がドルを金と交換できなくなったことで、連邦政府によるインフレを抑える大きな歯止めがなくなったのである。

ルーズベルトはその後、産業と農業をカルテル化し、労働組合に力を与え、公共事業に何十億ドルも費やし、社会保障、最低賃金法、全国失業保険などの制度によって、連邦福祉国家を確立することになる。エコノミスト、ロバート・ヒッグスが指摘するように、これは「(20)世紀の平時における最大の連邦政府権力の拡大」であった。

しかしルーズベルトの権力拡大は平時にとどまらず、第二次世界大戦によって米国は世界の覇権を握ることになった。戦争末期の1944年、ニューハンプシャー州のブレトンウッズで、米国を基軸通貨とする新しい世界通貨体制を確立するための会議が開かれた。ブレトンウッズ協定では、ドルを金と交換できるのは外国政府と中央銀行のみとされた。米国は金の上にドルを乗せ、欧州諸国はドルの上に自国通貨を乗せるというピラミッド型であった。

米国は戦後、過小評価されたドルと大量の金のストックをもって時代を迎えた。しかし米国がインフレ政策を続けたため、ドルの購買力が低下し、金が米国から流出した。1960年代半ばになると、ブレトンウッズ体制は崩壊し始める。ベトナム戦争と同時に、リンドン・ジョンソン大統領の「偉大なる社会」構想による福祉国家の拡大が始まった。この支出を賄うために、政府は前例のないインフレに走った。

しかしドルの量が急増すると、欧州各国政府は過大評価されたドルへの支援に不満を持ち、ドルを金で償還することを選択した。このため米国からの金の流出が加速し、1971年8月、米国はドルと金との最後の結びつきを断ち切った。

ブレトン・ウッズ体制は1971年12月、スミソニアン協定に取って代わられたが、この制度は機能しないことが判明した。一年余り後、純粋な不換紙幣と変動する為替レートの制度に取って代わられ、今に至っている。このとき、現在の福祉・戦争国家は確立されていたのである。

紙幣を発行して政府の支出を増やすことができたからこそ、米政府の権力が大きく拡大したことは明らかであろう。しかし商品に裏打ちされた国家通貨は、依然として国家によって管理されている。そのため、国家は財政上の必要性があれば、いつでも商品本位制を停止することができる。したがって古典的な金本位制は、現代のリバイアサン(巨大国家)の確立を防ぐことができなかった。実際、ミーゼス研究所のライアン・マクメイケンは、通貨制度に対する国家の管理を強固にすることで、古典的金本位制は変動不換紙幣の舞台を整えたと主張している。

私的商品貨幣に戻れば、20世紀を終わらせることができる。もしそうできなければ、政府の権力を制限するという希望は、幻想のままであろう。

(次を全訳)
The Modern State Cannot Exist without Fiat Money | Mises Wire [LINK]

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