2022-10-15

キューバ危機、真の教訓

ジャーナリスト、 スティーブン・キンザー
(2022年10月12日)

人類が最後に核兵器による自滅に瀕してから六十年になる。1962年、キューバ危機として歴史に知られたその遭遇をかろうじて生き延びた。それ以来、核の黙示録が今日ほど近づいたことはない。

キューバ危機最大の教訓は、核の危機を打開するうえで、現存する唯一の指針を与えてくれる。

米国の政治家や戦略思想家は一世代にわたり、その教訓を誤解していた。それを責めるのは酷かもしれない。政府が何年も真実を隠蔽してきたからだ。米国人は、ミサイル危機がある教訓を与えたと聞かされていた。しかし後になって、それはまったく逆のことを教えていることがわかった。

ミサイル危機は1962年10月に世界の注目を集めた。ケネディ米大統領は、ソ連の核ミサイルをキューバで発見したと発表し、「ワシントンを攻撃することができる」と述べた。ケネディはソ連の指導者フルシチョフに撤去を要求した。これが人類史上最も重要な、遠距離交渉のきっかけとなった。

ケネディの軍事顧問は全員、キューバへの大規模な爆撃を命令するよう促した。カーティス・ルメイ将軍は「この作戦はかなり単純で、数分で完了できるだろう」と断言した。「何の問題もない 」

ケネディは違った。キューバを制圧するには爆撃だけでなく、本格的な侵攻が必要であり、ソ連が壊滅的な力でそれに応じるかもしれないと懸念していた。1962年10月22日の国民への演説は、微妙なバランスを保っていた。ソ連がキューバからミサイルを撤去するよう繰り返し要求する一方で、米国は「忍耐と抑制」をもって行動し、「早計に、不必要に核戦争の危険を冒し、勝利の果実でさえ口の中で灰になる」事態を避けなければならないと述べた。

フルシチョフも配下の将軍たちから同等の圧力を受けていた。ケネディが何を言おうと、何をしようと、ソ連のミサイルはキューバから動かさないと主張するように求められた。

10月16日にケネディがミサイル施設の航空写真を見せられたことから始まった十三日間の緊迫の間、ケネディとフルシチョフは十通の手紙を交わした。両者とも妥協の必要性を強調した。「大統領、我々もあなた方も、戦争という結び目のあるロープの端を今引っ張るべきではありません。なぜなら、双方が引っ張れば引っ張るほど、結び目はきつくなるからです」とフルシチョフは書いている。ケネディは「問題の迅速な解決を求めるという、あなたの意思表示を歓迎する」と返信した。

双方が妥協に前向きだったため、取引は成立した。しかし、その一部しか発表されなかった。公式には、ソ連はミサイルの撤去と引き換えに、米国がキューバを侵略しないと約束したにすぎない。米国は完全な勝利と見まがうほどの歓喜に包まれた。いじめっ子は強大な力の脅威に直面すると引き下がると、世界に示したと信じていた。国務長官ディーン・ラスクは、結果を要約して「にらみ合っていたら、相手が目をぱちくりしたのさ」と述べ、この誤った教訓を広めようとしたのである。

慎重に隠された真実は、十年以上にわたって明らかにされることはなかった。ケネディはフルシチョフと密約を交わしていたのである。ソ連がキューバからミサイルを撤去する代わりに、トルコから米国の核ミサイルを撤去すると約束したのだ。つまり、危機はラスクが提案したような武力による脅しではなく、正反対の外交による妥協で終結したのである。これこそ、ウクライナで再び核危機が発生した際、米露両政府が耳を傾けなければならない緊急のメッセージである。

ケネディとフルシチョフは、核戦争に発展しかねない危機から脱する、互いに面目を保つ方法を提示した。それは巧みな解決策だったが、カギは秘密を守ることだった。ケネディは、ミサイル交換を行ったことを公にするわけにはいかないと主張した。フルシチョフは、それを秘密にしておくことに同意した。しかし、今日のようにメディアが入り乱れる時代では、そんなことは不可能だろう。

それでもバイデン大統領は、キューバ危機の教訓の根本を理解しているのが明らかである。すなわち、核のチキンゲームでは威張ったり脅したりではなく、話し合いと取引をすべきだということだ。「私たちは、プーチンの出口を見つけようとしている」と今月、バイデンはつぶやいた。「プーチンはどこに出口を見出すだろう」

運が良ければ、米露首脳は、フルシチョフが六十年前、ケネディに宛てた手紙で述べた原則に従って行動するだろう。「人は情熱に身を任せてはいけない。それを抑制することが必要だ」

(次より抄訳)
The most important lesson of the Cuban Missile Crisis - The Boston Globe [LINK]

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