2022-10-02

「もの言う」江戸の百姓たち

「もの言う株主」がしばしば経済ニュースをにぎわす。「もの言う」態度がニュースになること自体、沈黙を美徳とし、あからさまな自己主張を差し控える日本社会の特質を示しているのかもしれない。

しかし、日本人は昔からそうだったわけではない。江戸時代の人口の約八割を占めた百姓たちは、武士に一方的に支配される無力で弱い存在というイメージが強い。しかし、じつは村のルールを自分たちで決め、自分の利益を守るためなら積極的に訴訟を起こし、ときには支配層である領主たちに敢然と自己主張するたくましい人々だった。

言いなりにならない江戸の百姓たち: 「幸谷村酒井家文書」から読み解く

まず、村のルールを見てみよう。近世の村社会を特徴づけるのは村掟である。村はどこでも自分たちの手で掟を作っていた。農業用水や共有山の利用から日常生活にいたるまで、緊密な連携を必要とする農業社会にあっては、 他所からの奉公人を含むすべての村構成員を統制し、違反者に対して制裁を加えるルールが必要だった。

たとえば1662(寛文2)年、近江国蒲生郡の三津屋村で定められた村掟では、「2月1日から11月1日までの間は、木の葉の掻き集めをしてはいけない。もし盗み掻きした者は、米五升の罰とする」などと定めている。

この村では米五升が制裁の標準だったが、各地の村では掟に違反した者に対する制裁を取り決め、実際に執行していた。制裁の種類はおおむね追放刑を頂点に、付き合い禁止(村八分)、見せしめ刑、罰金刑から構成されていた。

見せしめ刑には、坊主にして謹慎させる、片鬢を剃り落とし赤頭巾を着せて葬式行列の前に立たせる、人前に出る時は赤頭巾を被せるなど各種あった。なかには前代以来の慣習と思われる「耳を削ぎ追放する」といった過酷な制裁を掲げる村もあった(水本邦彦『村——百姓たちの近世』)。

次に、訴訟の実態を見てみよう。戦国時代までは、村々は自力で自村の領域を守っていた。そこでは村同士の話し合い、近隣の有力者の仲介を得ての交渉、ときには武器を取っての実力行使など、さまざまな手段がとられた。

それが江戸時代に入ると、泰平の世のもと実力行使が禁止される一方で、幕府・領主への訴訟が紛争解決手段としてきわめて大きな意味をもつようになった。訴訟に勝てなければ、自村の領域を維持できない時代になったのである。

百姓たちは、訴えたいことがあると、幕府領の百姓なら自分が住む村を管轄する代官所、大名領(藩領)なら藩の農政担当部局である代官所や郡奉行所に訴え出た。領主が異なる村・百姓間の争いは幕府が裁いた。

百姓・町人が領主に提出した訴状は、「恐れながら……願い上げたてまつり候」という言葉から書き始められることが多い。江戸時代の庶民は、民事紛争の解決を領主に要求する権利をもっていたわけではなく、庶民の訴訟は「お上の手を煩わす」ものとされていたのである。領主が訴訟を受理することは、領主の義務ではなく、お慈悲だった。

けれども、こうした建前にもかかわらず、実際には百姓たちは武士たちが辟易するくらい頻繁に訴訟を起こした。百姓たちは、「お上の手を煩わす」ことを恐れはばかってばかりはいなかったのである(渡辺尚志『百姓たちの山争い裁判』)。

とくに水は、飲料水・生活用水であるとともに、農業用水としても不可欠だった。このため水不足の年などには、同じ川から農業用水を取水する村々の間で、水をめぐる争いが起こった。たとえば、上流部の村が多く取水したため、下流部の村まで水が行き渡らなくなり、下流部の村が上流部の村に抗議するといったケースである。

今でも、互いに自己主張して譲らず、延々と言い争うことを「水掛け論」というが、これは百姓たちが互いに自分の田に水を引こうとして、一歩も譲らず争ったことからきた言葉である。

複数の領主が錯綜して村々を支配しているところでは、用水をめぐる村々の争いに複数の領主が関係することになる。領主の異なる村々が争った場合には、訴訟は幕府に持ち込まれる。しかし、幕府の担当部局も一元化してはいなかった。

そこで村々の側も、願いを聞き届けてくれそうな役所を選んで願い出ることがあったし、それでもだめなら江戸の評定所(現在の最高裁判所にあたる幕府の機関) に訴え出ることも辞さないといった、したたかさを持ち合わせていた(同『百姓たちの水資源戦争』)。

百姓たちは、訴訟で互いに争っていただけではない。支配階級である武士に対しても、自己の利益を守るためには堂々と自己主張した。

近江国蒲生郡の鎌掛村で1758(宝暦8)年から庄屋を務めた平蔵が残した記録によれば、領主への願書や届書の中でも最も多いのは、納税に関するものである。平蔵の庄屋時代は、年貢徴収方法は毎年の作柄を調査して年貢額を決める検見取りだったが、この件に関して何通かの願書を提出している。

たとえば、「蒲生郡村々の早稲方の見分をお願いします。今年はことのほか永旱(ながひでり)で、例年より赤らみが早いようです。ことに山方村は猪鹿の制動(制圧)に難儀するので、今月20日頃に御出でくださり御見分ください」とある。

百姓と領主役人との間で、日程や方法をめぐって折衝が続く。どの時点でどのような検見を受けるかは、百姓たちにとって稲刈り、収穫作業に関わる最重要のテーマだった。

年貢額そのものに関する願書もたびたび提出された。宝暦8年9月には、じつに八十年も前からの経緯を述べながら、年貢の減額を願い出ている。庄屋平蔵たちは古い文章を博捜して、根拠資料を調べあげたのである。こうしたデータにもとづいての願い出は一定程度効果を上げたらしい(水本前掲書)。

さらに一歩踏み込んで、百姓が武士の罷免を求めるケースもあった。

1773(安永2)年、春日氏の知行所(領地)常陸国真壁郡赤浜村など六カ村が共同で、18世紀後半以降、財政赤字が増大し、安永2年当時約400両の借金を抱えて苦しんでいた春日氏に対して、その負債内容を村々に公開させたうえで、支出削減などの財政再建策を行うよう、具体的な金額をあげて提案した。

提案には、春日氏の家臣の人員削減も含まれていた。百姓が武士のリストラを要求しているのだ。さらに、財政収支を知行所村々が管理して収支のバランスを適正化し、確実に財政健全化を図ることとされた(渡辺尚志『言いなりにならない江戸の百姓たち』)。

もちろん武士と百姓という身分の違いは歴然としているものの、武士が百姓を一方的に搾取したという江戸時代のイメージとは大きく異なる。税・社会保障の負担にじっと耐える現代の日本人は、むしろ江戸の百姓たちを見習い、政府に「もの言う」姿勢を示してみてはどうだろうか。

<参考文献>
  • 水本邦彦『村 百姓たちの近世』(シリーズ 日本近世史 2)岩波新書
  • 渡辺尚志『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』草思社文庫
  • 渡辺尚志『百姓たちの水資源戦争:江戸時代の水争いを追う』草思社文庫
  • 渡辺尚志『言いなりにならない江戸の百姓たち: 「幸谷村酒井家文書」から読み解く』文学通信

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