2022-09-21

ケインズは社会主義者だった

経営学修士、エドワード・フラー
(2020年4月10日)

英経済学者ジョン・メイナード・ケインズはソビエト社会主義に共感しており、生粋の自由主義者ではなかった。

1917年11月7日、ロシアでレーニンとボルシェビキ(ソ連共産党の前身)が政権を握った(十月革命)。ケインズは「私に与えられた唯一の道は、ボルシェビキになることだ」と嬉々として宣言した。

12月には、ロンドンで「1917年クラブ」を共同設立した。もちろんボルシェビキ革命の年を記念して命名されたものである。クラブのメンバーには20世紀英国の社会主義者が並ぶ。G・D・H・コール(学者・作家)、ヒュー・ダルトン(労働党政権の財務相)、J・A・ホブソン(経済学者)、ラムゼイ・マクドナルド(英国初の労働党出身の首相)、オズワルド・モズレー(英ファシスト党党首)、ジョン・ストレイチー(政治家)、H・G・ウェルズ(作家)、レナード・ウルフ(作家。作家ヴァージニア・ウルフの夫)らである。

1924年7月、ケインズは対ソ文化関係協会(SCR)の創立副会長となった。SCRは全ソ連対外文化関係協会(VOX)が管理・資金援助する親ソ団体であり、VOXはソ連政府の国際宣伝機関で、実質的にはソ連国外での社会主義宣伝の隠れみのだった。

ケインズは、1930年代初頭の英国の社会主義運動と密接に関係していた。新フェビアン研究局の準会員であった。この団体は、1917年クラブとSCRのメンバーであるG・D・H・コールが運営する、英国を代表する社会主義シンクタンクだった。ケインズはその姉妹組織である社会主義調査宣伝協会にも関与していた。

ケインズは、1917 年クラブの旧友で、英国初の社会主義政権で首相となったラムゼイ・マクドナルドの重要な経済顧問だった。実際ケインズは、マクドナルドや同じく 1917 年クラブの会員だったヒュー・ダルトンよりも急進的な社会主義者だと自認していた。1930 年 6 月、彼らとの会合で、ケインズは自らを「この場にいる唯一の社会主義者」だと述べた。

1923 年、ケインズは政治週刊紙「ネーション・アンド・アテネウム」を買収した。1931 年初めには、英国の代表的な社会主義新聞であるニュー・ステーツマンと合併させた。この新聞は、ケインズの親しい友人であるウェッブ夫妻によって1913年に創刊された。合併後の新聞は「ニュー・ステーツマン&ネイション」と呼ばれ、ケインズは会長に就任した。1931年2月から1946年4月に亡くなるまで、ケインズは英国を代表する社会主義新聞の会長だった。

ケインズの主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』は、1936年2月4日に出版された。ケインズは、出版からわずか119日後にこう宣言している。「最近まで、(スターリン政権下の)ロシアの出来事はあまりにも速く進み、紙上の公約と実際の成果との食い違いは、適切な説明を行うにはあまりにも大きかった。しかし新体制は、いまや見直すことができるほど十分に明確になった。その結果は印象的である」。

ソ連における農業集団化の時期は、『一般理論』の出版と重なる。この期間、スターリンは1億人を奴隷にし、1150万人の自国民を殺害した。さらに強制収容所を急拡大させた。1936年にスターリンのロシアを「印象的」だと主張したことは、ケインズが真の自由主義者でなかったことを示すものだ。

(次より抄訳)
Keynes Called Himself a Socialist. He Was Right. | Mises Wire [LINK]

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