2022-09-13

マルクスの銅像はなぜ許される?

ライター、ロビー・ストーン
(2018年11月2日)

人々はファシズムの象徴である鉤十字を見れば、すぐにナチスの悪事を連想し、嫌悪感を抱く。欧州の多くの国では、この印を公にすることは犯罪とされている。人々はナチスのイデオロギーがいかに忌まわしいものであるかを理解し、軽蔑と嫌悪の念をもって接する。

しかし、共産主義の象徴である「鎌と槌」の場合はどうだろう。

ナチスのホロコーストと同じく、共産主義はソ連の強制収容所やカンボジアでの(ポル・ポト政権による)殺戮が広く知られる。しかしジャーナリストは公然と、誇らしげに共産主義を擁護している。マルクスの銅像が建てられている。歴史的に最も熱心な反共産主義国家の一つである米国でさえ、北西部の都市シアトルに(ロシア革命を起こした)レーニンの銅像が建っている。

なぜ、同じように血なまぐさい二つのイデオロギーを、これほどまでに違う形で扱うのだろうか。

その答えは、美徳に対する誤った認識にあるのかもしれない。ナチスは当然のことながら、憎悪と悪意に満ちたものとみなされている。なぜならナチスのイデオロギーは、ある集団が他の集団より優れているという考えを中心に構築されているからだ。その本質は反平等主義のイデオロギーであり、それを考案した人々によって一度だけ実行に移された暴力的な信念である。

そのため、ファシストが「あれは本当のナチズムではない」と主張することは正当化されない。だが共産主義の場合は違う。

マルクスは自分では共産主義を実行しなかったので、共産主義国家の指導者はいつでも非難を免れる。共産主義体制が直面するあらゆる欠点・悲劇・危機はいつも、マルクスのユートピアに至る工程表に間違いはないのに、その使い方を間違ったせいにすることができる。

都合のいいことに、共産主義者はいつでも、過去の惨事から自分を切り離すことができる。自らを思想の先駆者として描き、その思想はまだ花開くチャンスがないのだと言えばいい。「真の共産主義はまだ試みられたことがない!」というわけだ。

かくして共産主義を擁護する人々は、自分を主人公として描き続けることができる。自分たち労働者階級の解放と労働者の楽園をつくるために戦っており、以前の偽預言者とはまったく関係ないという。最悪でも、共産主義を支持する人々は、見当違いをしているものの、結局は善意に満ちているとみなされる。

これが問題の核心だ。ナチズムがその信奉者の犯罪と本質的に結びついているのに対し、共産主義はつねに切り離すことができる。(ナチスドイツの)ヒトラーや(イタリアの独裁者)ムッソリーニが描かれたTシャツを許せる人はいないだろうが、ひどい弾圧を行った(キューバ革命の指導者)ゲバラはたやすく罪から切り離され、革命のシンボルに変身してしまう。

共産主義の悲惨な実績にもかかわらず、共産主義を支持し続けるのは、善意でも見当違いでもなく、明らかに危険なイデオロギーを意図して推し進めようとしているのである。共産主義の歴史は、ナチズムの歴史と同じように血で汚れている。そろそろ、そのように扱うべきだろう。

(次より抄訳)
Why the Hammer and Sickle Should Be Treated Like the Swastika - Foundation for Economic Education [LINK]

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